『多数決が有効なのは、全員が事情を把握している場合のみである』
※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。
やっぱりオンバ様はツンデレだろ。(挨拶)
今日も暖かい。陽も長くなり、17時頃はまだ明るい(自然17〜18時を基準に考えているあたり、夕焼けチャイムの存在は大きいのだな、と感じる)。しかし日没後は速やかに気温は下がった。
民主主義とはありていに言ってしまえば多数決主義だ(本当は違うのだが)。現在のこの国ではいくつかの選択肢がある議題の多くを多数決によって決める傾向にある。これはやはり義務教育下において、頻繁にこの手法で物事を決めているという事実に、その根幹があるのだろう。
しかし何もかもを多数決で決めてよいのかと言えば、もちろんそんなことはない。先の義務教育の例で言えば、無知であるが故に誤った(大多数が望まない結果に終わる)選択をすることもしばしばであるし、あるいはその選択の内容に関係なく、自分の好きな友達に追従したりもする。そうなってくると多数決で物事を決めるのは、まったくの無意味となる。
これを防ぐためにはディベートを行うことが一般的だ。各々が選んだ選択肢の正当性・妥当性・合理性を論理的に説き、それぞれ合意の上で選択するわけである。もちろん完全な合意に至らない(それぞれに道理が通っている)場合は多数決によって決めることになるが、そうなったとしてもディベートを行うことにより、その場にいる全員が事情を把握し、(何もしないよりは)妥当な多数決が行われるだろう(ちなみに風鈴製作者が小学生の頃には、すでにそういう手法を学ばせていた。その後、どうなったのだろう?)。
しかし世の中には事情を知らず、まともなディベートもせず、その選択肢の内容すらまともに知らずに、その場の気分で決めても誰にも文句を言われない、誰もが投票できる多数決がある。選挙である(しかし問題なのは選挙制度そのものではないことは言うまでもない)。