風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(17年目その1)

『愛情を注いだ相手は、そこに存在しているだけで愛を還してくれている』

 

 8年近く放置とかなかなかだよね。(挨拶)

 

 先に言っておくと、猫が嫌いな人、または猫が好きな人が嫌いな人は、回れ右してどうぞよろしく。この記事は猫キチと呼ばれるのを覚悟で書いています(別に猫に限らず、動物全般好きだけど)。

 昨日の昼頃、飼い猫が、旅立った。

 虹の橋を渡った、とかファンタジックな思想は持っていないので、〇んだ、とハッキリ書いてもよいのだが、特に最近(結構前からだけど)は残酷なことを直接的表現で言及するといろいろとセンシティブらしいので、旅立った、としておこう。

 ともかく飼い猫が去ったのだが、2002/08/29にウチに来た時点でトイレは自分でできていたので、まず間違いなく20歳は越えていただろう。完全室内飼いならば、かなり長寿になることも普通な時代なので、さほど珍しくもないだろうが、まあ長生きだった。

 ここ半年以外はコレといった病気もなく、健やかで、実に凡庸な雑種の黒猫だったが、最後に2つの点で風鈴製作者に爪痕を残した(引っ掻いたという意味ではない)。

 

 1つ目は、生きる、ということについて。

 ウチの飼い猫は、主に3月頃から体調を崩し、徐々に弱って、食が細くなり、足腰が立たなくなって、ここ1週間は立ち上がるのがやっとの状態だったが、それでも2日前までは自力で這うようにしてトイレに向かって歩いていた。

 …同じように、ほとんど歩けなくなるほどに衰弱した人間に、自分に、これができるだろうか? そう思わずにはいられなかった。

 そこには生きることに対する真摯さ、ある種の誇り、美しさがあるように感じられた。

 思えば、母も末期ガンでホスピスに入る直前まで、自身で家事をすることを止めなかった。定期的に真っ赤に染まった腹水を抜いてもらっているような状態だったのに(一応、名誉のために記しておくが、当時、すでに風鈴製作者が家事を引き継いでいたが、出社している間に、母がいろいろとこなしてしまっていたという話)。

 無理をすることが素晴らしいのではないし、助けを求めることが卑小だ、などとは微塵も思っていない。ただ、その意志を、本物の意志を持つことが美しい。

 そんな存在が、身近に2例もあったことに、心から感謝したい。

 

 2つ目は、愛とその対価について。

 愛とは無償ではない。こんなことを言うと、一部の人は怒り出すかもしれないが、風鈴製作者はそう思っている。少なくとも、それができるのは聖人の領域であって、とてもではないが一般的ではないだろう。

 だから飼い猫にかける愛情も、ある程度の見返りがあってのことだ。もちろん相手は猫でしかないので、十全な物や行動が返ってくるわけではない。それどころか、巷間言われている通り、猫とは勝手気ままな生き物で、面倒ごとを引き起こすことの方が圧倒的に多い。だが、猫に限らず、そこを織り込み済みで飼うのがペット飼育というものだろう。そういう考えでなくては、途中で絶対嫌になる(実際、そんな感じで投げ出す人は多いようだ)。

 要は、注いだ投資に対する普遍的なリターンは見込めない、ということだ。

 では何故人はペットを飼い続けるのかといえば、自身のペットに他にはない価値を見出しているからであろう。

 曰く、ウチの子は世界一可愛い、愛嬌がある、こんな芸ができる、言葉を理解してる、ああするとこうしてくれる等々、枚挙に暇がない。

 もちろん中には、それが真実に唯一無二のものもあるのかもしれないが、たいていはありふれたレベルのものに過ぎない。早い話が、飼い主の欲目贔屓目というものだ。思い込みでしかない。

 それが悪いと言っているのではない。情愛とは多くがそういった幻想に根差していて、普遍的価値が保証されているわけでないというだけのことだ。

 だから風鈴製作者は飼い猫のことを格別に可愛いとは思ったことがない。本当にない。もっと美人な猫なら余所にいくらでもいるし、もっと賢くて愛嬌のある犬は山ほどいるだろう。別に自身の飼い猫はブサ猫だったわけではないけれど(これがもう贔屓目かもしれない)、正直、全然賢くはなかったし、鳴き声は汚いし、かなりワガママだったのではあるまいか。

 でも一番大事なのは、余所のペットではなく、飼い猫の方だ。

 当たり前じゃないか、と思うかもしれない。風鈴製作者もそう思っていた。だって自分のペットなんだから一番大事でしょ?、というある意味で自己愛的な短絡的感情でそうなるのだと。

 だが、どうも違ったらしい。飼い猫の死期が近づくにつれて、そのことを思い知らされた。

 

 終幕に向かう飼い猫を見続けて、湧き上がる感情は『感謝』。 

 

 病み、衰え、粗相をし、獣医に通い、投薬点滴を行い、食べられる食事も狭まり、グルーミングもできなくなり、介護を要する面倒さとかかる費用の増大。人間や大型犬相手と比べれば、まだ楽とはいえ、それでも投げ出したくなる厄介さだった。

 だが、不満や憐憫、哀しみよりも、遥かに大きい『感謝』があった。

 悟ったつもりは無い。風鈴製作者はそんなものからは遥か遠い人間だ。

 ただ、そこにいてくれるだけで、愛を還してくれていたことに気付いた。

 20年間、触ったり触られたり、小突いたり、引っ掻かれたり、わりと本気のケンカをしたり、寝起きに突撃されたり、甘えてきたから撫でようとしたら踵を返したり、食餌をしないと思ったら以前拒否したモノを食べだしたり、訳の分からないことやイライラさせられることが山ほどあって、そのくせ、夕飯を食べていると先に食べ終わった飼い猫がすぐ脇に黙って座り込んでいた。

 その全てが愛おしく、そして飼い猫から愛を受けていた。

 行動の種類や目的が重要なのではない。ただ、そこにいてくれたことが大事だった。

 この感情は親が子に抱く、ただそこにいてくれるだけで幸せ、生きていてくれるだけでいい、というものに近いのだと思う。風鈴製作者も母から、それに類することを言われたことがある。

 今、ようやく、その気持ちが、ほんの少し理解できたような気がする。

 風鈴製作者は独身だが、広い世間の子持ち御夫婦の方々は、皆、こんな感情を我が子に抱いているのだろうか。その仔細を論じる資格は風鈴製作者には無いし、そのつもりも無い。ただ、そうであると良いと思う。そうであるなら、きっと子どもたちは幸せであろうから。

 

 飼い猫にそんなつもりは無かっただろうし、勝手気ままに生きていただけだろう。

 だが風鈴製作者はそこから気付きを得た。その価値は大きく、相手が人であろうと、猫であろうと、価値は変わらない。

 ありがとう。

 そこにいてくれて、ありがとう。

 教えてくれて、ありがとう。

 非科学的だけれど――――また、いつか、どこかで、会いたいよ。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(10年目その1)

『注目すべきはその飛躍』


 10年目だったらしいんです。(挨拶)


 今年の夏は関東は割りと普通に晴れが多く、そこそこ暑かったのだが、その他の多くの地域では天候不順で野菜が高騰したりしていた。もともと夏前の長期予報ではエルニーニョ現象を根拠に冷夏が予想されていたので、予想通りといったところ。しかしおそらくだが関東の人は、また予想が外れた、と思っている可能性が高い(というか風鈴製作者の周辺には多かった)。人間、自分の周囲を基準に考えるものである。
 さて夏コミのレポートも書かなかったのに、何故いまさら10年目第1回の日記を書いているのかというと、とても興味深い、というか、人類史上に残るかもしれない報道を目にしたからである。


 ――――核融合炉の実用化に目処が立ったというのだ(記事はコチラ)。


 興味のない人にはまったく分からない話なのだが、凄く簡単に説明すれば、記事の内容が事実であり、本当に商業的実用化に漕ぎつければ、その他の発電方法はほぼ無用の長物になるほどの膨大な電力が生産可能になり、エネルギー問題は根本から解決するということだ(無論フェールセーフの観点からその他の発電法も維持すべきだが)。
 いまだ世界に起こり続けている争いの、原因の多くは物の奪い合いだ。大国が絡む戦争や紛争は全てそうだと言ってよい。核融合炉が実用化すればそういった争いはほとんどなくなる。エネルギーが充分ならば代替の利く資源も多いため、エネルギー資源に限らず、生産資源に関する争いも今よりはかなり減るだろう。
 民族の自治・独立に関する騒動もある程度は減るはずだ。小規模民族の独立を認め、それら小コミュニティを維持するだけの余裕が生まれるからである。かつて人類の生活水準が低かった頃は、全体というものを強く意識して皆が同じ方向を向いていないと集団を維持できなかったことに対し、現代になるにつれて技術革新が進み、生活水準が向上すると個人主義が台頭し、社会がそれを許容できるようになったことと同様のことが起こるはずだ。
 最後に残るのは宗教的対立だろうが、それだって中世の頃と比べれば、格段に穏やかな対立になっている。そもそも宗教の成り立ちは生きることへの不安に根差しているケースが多い。生活に対する不安が減れば、宗教に頼る人は少なくなるので、結果として宗教対立も小規模なものとなるだろう。


 無論そこまでになるには数百年の時間が必要だろう。人は合理的ばかりではないので、様々な面で感情的な抵抗があるはず。しかし最終的にはそうなる。この記事は、そこに向かうための前提条件のひとつが満たされたかもしれない、というものだ。実は風鈴製作者は以前にも核融合炉については少し触れていて、今世紀中には難しいのでは?、と書いている。今でも記事の内容を疑っているし、生きているうちにはお目にかかれないだろうなと思っている。だが、心の底から本当のことであって欲しいとも思っている。技術の素晴らしい飛躍の瞬間が見られるからだ。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(9年目その2)

『隠すも良し。隠さぬも良し。要は表現力』


 こ、これもなにかの任務なのですかっ!?(挨拶)


 ――――提督Lv104までいったんだ。(カラーレンジャーのレッド風に)
 前回は挨拶だけでサラッと流したが、7/22に舞鎮に着任して以来、もうずっとコツコツと艦これをやっていて、艦娘はコンプリートしてます。ハイ、大型建造も含めてです。大鵬ちゃん、とても真面目可愛いです。でも秘書艦は、不動の鳥海さん。『夏休み』に続き『冬休み』でも鳥海さん(と摩耶)が載っているようで、まさに俺得でございます。……コミケで手に入らなかったけどなっ!
 …まあそんなこんなでコミケの季節である。なんかコミケのレポートブログみたいになりつつあるけど、別にそんなつもりはなく、ただ単にこのブログを死なせないために、たまに書き込むきっかけにちょうどよい、というだけのことだ。


 なお今回はやや卑猥なことを書くので、自身が潔癖、もしくは健全で、不浄なものとは何一つとして関わりたくないと思っている人は読み飛ばし推奨。


 よいだろうか?
 興味のない人はまったく知らない話だろうが、この秋以降、主に18禁指定されている卑猥な描写のある発行物に対して、以前よりも強い修正がかけられている。いわゆるモザイクとか黒塗り修正のことだ。
 これらは別に法的に規制がかけられたわけではなく、出版社や発行人が自主的にやっていることだが、まあ実際には暗黙の了解というか、見えない圧力があるわけで、有体に言ってしまえばオリンピックの東京開催が決まったので、行政から少なからず出版界に自粛を“促されて”いるのだ(実際には某有名エロマンガ雑誌が廃刊に追い込まれた。凄いことをするものである)。
 こういったことは別に珍しいことではなく、今までにオリンピックが行われた都市では、ほぼ例外なく行われてきたことのようだ。もちろん理由は世界に美しく清廉な都市であることをアピールして観光誘致に繋げたいからだ。多分、このままいけば、少なくともオリンピック開催までにはコンビニからエロ雑誌コーナーは消えるだろう。
 個人的には別にそれで構わないと思う。基本的にポルノはおおっぴらに放出するようなものでもないと思うし、街のそこかしこに扇情的なものが展示されているのは明らかにおかしい(実のところ、その点においてはここ10数年の秋葉原はおかしい街だと思っている)。法令で無理でも、条例で国道や県道沿いでポルノを売ることを禁止してもよいのではないかとすら考えるのだがどうか?
 もちろんそういった業界の人々にとっては、そういうあからさまな規制をかけられることは甚だ迷惑なことだろうが、しかしそれで本当に売り上げが落ちるものだろうか? すでにそういった商品を買う人はネットに頼っている人が大多数を占めているように見えるし、実際にコンビニで働いたことのある人に聞くと、ああいうコーナーの商品はさほど売れていないらしい。それが当たり前だと思う。誰に見られているかも分からないのに、そんな近所のコンビニで卑猥なものを買ったりするだろうか。まともな恥や神経の持ち主ならやらないと思う。そういった意味でもポルノとは、自然と隠れるものだろう。
 別にポルノそのものを否定してはいない。あれらは間違いなく社会に必要なものだ。ただ、あまりに堂々と、誰の目にもつくような売り方は、いろいろな弊害を生むと考えているだけである。そういった商品を扱う一部の商店とネットショップがあれば、ほぼ誰も困らないだろう。
 また、もしポルノの一切合財が必要ない、などと本気で思っている人がいたとしたら、その人は誰かに洗脳されているか、あるいは人間という生物を何も知らないのだと思う。きっと目を背け、耳を閉じた人生を送っているのだ。さぞかしつまらない人生だろう。もちろんそんな人がいるとは思っていない。そういう主張をしている人は、商売でやっているに過ぎない。口だけだ。


 コミケにもそういった波が押し寄せていて、今回からエロマンガ雑誌準拠の強化された修正がされていないと販売停止になるようになった。もともとほとんどなかった修正不備による販売停止だが、昨日今日と激増しているらしい。過渡期だから仕方ないといえば仕方ないが、もう少し明確な基準を告知した方が良かったのではなかろうか? スタッフが販売停止と判断している以上、何らかの基準があるのだと思うのだが…。


 あ、南西クエスト終わった。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(9年目その1)

『鶏口となるも牛後となるなかれ。――――別に鶏口になれとは言っていない』


 提督が鎮守府に着任しました。これより艦隊の指揮に入ります。(挨拶)


 なんか今年はずいぶん早く入梅宣言したかと思ったら、あっという間に出梅宣言されて、7月上旬には急に暑くなって渇水が懸念され出したら、戻り梅雨でとても涼しくなり、たまに猛烈なスコール(風鈴製作者はゲリラ豪雨という言葉が適切ではないと思う)が起きたりと、予想のつき辛い空模様だったのだが、8月に入って…、具体的には8/7からだが、連日猛暑日になるという、体の弱い人には優しくない気候だ。
 そんな中、例によってコミックマーケットが開催されている。今回はやや変則的な日程・配置で行われているため、3日間全日参戦予定なのだが、とにかく過酷だ。財布の中身に過酷なのはいつものことだが、無論、もっとも問題なのは参加者の体調に、とにかく過酷な環境である。昨日も何人か車椅子で搬送される熱中症者を見かけたが、今日は、目の前で倒れて動けなくなった人2名、車椅子で運ばれている人4名、担架で搬送される人1名、台車に椅子を乗せたもので運ばれる人1名を直接見かけた。…要するに搬送用の車椅子や担架が足りていないのである。
 当然ながら熱中症の予防については、準備会側から再三に渡って呼びかけが行われている。にも関わらず多数の人間が熱中症で倒れるというのは、苛酷な環境もさることながら、自己管理の問題であるとも言えるだろう。そもそもコミックマーケットは全員が参加者である、という前提がある。つまりは体調管理は自己責任なのだ。
 準備会のサービスが不十分だ、という言い訳は通じない――――のだが、お客様気分の参加者が急増した現在、そんなふうに準備会のせいにしようとする参加者は多そうだ。少し話が逸れるが、今日も唐突に会場内で列整理をしているスタッフに「A-21ってどこですか?」という質問をしている参加者を見た。そしてスタッフが答えあぐねていると、たちまち不満そうな表情になった。断っておくが別にスタッフは基本ボランティアであって、インフォメーションのプロではない。知らないことがあってもなんらおかしくはないのだ(この場合、外周スペースの配置なので知っていて欲しいところではあるが)。面倒くさいになる前にさっさと風鈴製作者が誘導しておいたが(別に自慢しているわけではない。10年以上も参加しているのでそのくらい知っていて当たり前なのだ)、なぜ自分の行きたいサークルの場所くらい把握していないのだろう? 好きなことに対する情熱が足らないのではあるまいか。それとも誰かに頼まれただけなのだろうか。どちらにしても、どこかフワフワした印象を受ける。


 個人的観察に基づくもので、普遍的な話しではないが、熱中症で倒れている人の多くは身なりが整っていない。おそらく徹夜組みで充分な休息・睡眠が取れていないのではなかろうか。この件についても準備会は再三注意している。徹夜自体は準備会自身が禁止しながらも、黙認して列整理するという状態(なにしろ放置して深夜徘徊させていると警察から指導を受けてしまうのである)なのでなんとも言いがたいところだが、徹夜組みにはせめてそれ以上の迷惑や負担をかけないで欲しいものだ。


 ちなみに風鈴製作者は15:30現在、疲労しつつも体調は悪くない。会場内では汗だくでふくらはぎまで汗が伝うほどだったが、運動部経験のある人間は、ある程度そういったことには慣れている。世代的にも、部活中、水は飲まないもの、という指導を受けていたので、渇水に対する耐性が強いのだろう。むしろ周囲の参加者が1〜2ℓも飲み物を持ち歩いて、頻繁に飲んでいるほうが驚きだ。コミケはお小水との戦いでもあるのだが…。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(8年目その5)

『三人寄れば文殊の知恵、とは言うけど、所謂、烏合では意味がないどころか害悪だ』


 え、なんだって?(挨拶)


 今年は3月に入って以降、急速に暖かくなって、昨日には東京地方は早くもソメイヨシノが満開とのこと。まあウチの桜はオオシマザクラ(推定)なので、まだまったく咲いていないけど、そろそろ花開きそうな様子だ。
 去年の末からいくつかの要因で急速に円安が進み、株価が上昇している。まあこの国の株価は安倍首相率いる自民党が掲げるアベノミクスへの期待感によるもので、今のところ実体が伴っているわけではない。衆議院選以来、国会で行われた、経済に直接関わるような議決といえば、12年度補正予算と日銀人事くらいだ。日銀の新体制も3/20に発足したばかりだし、今後、実際にどうなるかは判らない。一方でアメリカは緩和政策の結果、経済指標はかなり好調なようで、あとは失業率さえ回復すれば…、というような状況のようだ。
 そんな中、EUだけがパッとしない。原因はやはり主に南ヨーロッパ各国の金融不安らしく、イタリアやスペインの国債利率は5%前後を行ったり来たりしている。
 そのイタリアでは先月、上下院議会の選挙があったが、上院ではどこの党も過半数を取れず、しかも主な政党はどこも連立を組むことに難色を示しているという。『緊縮を継続する』、『継続しない』、『国民投票を行ってEU脱退を問う』とそれぞれの主張が大きく異なることが原因なのは明らかであり、このままだと大統領権限で、議会解散→再選挙、という流れなのだが、現大統領が任期切れ間近でその権限が無効になってるらしく(イタリアでは任期切れ6ヶ月前から解散権が無効になる)、6月までそれもできない。gdgdだ。
 さらにはトルコに程近い地中海上にあるキプロスという国がやはり金融破綻寸前のようで、その救済の条件としてトロイカEU・ECB・IMFの3つを総称してこう呼ばれている)が出したのが、銀行預金そのもの(利息にではない)に税金をかけて、自己資金を調達せよ、というものだ。この前代未聞の条件に、キプロス議会は与党が全棄権、野党は総反対で賛成0で否決するというgdgdぶり。それというのも、この国の預金は半分ほどがロシア人のものらしい。つまり銀行預金に税金をかけるということは、ロシアから税金を徴発することに等しいのである。そりゃあ、ロシア側から何らかの圧力がかかっていてもおかしくはないだろう。しかしそのロシアにキプロスは融資を要請したらしいのだが、見事に断られた。gddg過ぎる…。現在3/24・5:16だが、トロイカとの話し合いで新たな税率設定(定番の富裕層から徴収して、庶民は無税方式)で合意して、今日の議会で採決する予定とのこと。
 このふたつの件から強く感じるのは、やはり本当に重要かつ危急な状況においては民主主義は正当に機能しない、ということだ。現代社会において、政治経済は複雑化し、またグローバル化したことによって、何が問題で、誰に責任があるかが非常に不透明だ。便宜上、首を挿げ替えることはできても、それで問題が解決するほど単純ではない。大して重要度が高くない場合ならそれでも取り返しがつくのだが、本当に大事なことを決めなくてはいけない場合、よく状況が掴めない状態で、好き勝手な思い込みによる大勢の人間の多数決で決めるのはとても危険だ。何が危険なのかといえば、往々にして、大事なことを大事なことだと正確に認識できないことが危険なのだ。
 上記の話で言うならば、風鈴製作者個人としてはキプロスに預金に税金をかけるように要求するのは妥当だと思う。国家の不始末に対し、国民全員で責任を取るのは当たり前だ。多くの人は、政府のせいだ、政治家のせいだ、と思うようだが、民主主義国家ならば政治家を選出しているのは国民だ。実質的に一部の富裕層・権力保有層にしか被選挙権がないとかならばともかく、普通選挙を採用している国家の国民に、責任がないなどとは言えない。ゆえにキプロスに対する要求は、救済する側であるトロイカにとっては当然の要求だ(もっともそれはキプロス政府自身が考えたように演出するのが理想的だったと思うが、やはり同国政府与党にとっては不都合だったのだろう)。しかしキプロス議会員は、国民に負担をかけるのは〜〜、とか言ってるようだ。果たして今日の議会で新たな案は可決されるのだろうか。ここまでの流れが政治的演出であることを願うばかりである。


 何もかも皆で決めれば良いわけではない。そんなこと当たり前だと思うのだが、しかし民主主義はそれを頑として認めず、選挙を絶対視して政治家を人気取りに傾倒させている。その結果として、いろいろな場面で同じ失敗を繰り返しているように見える。いつになったらそのことに気づくのだろう――――というか、かなり多くの人がそのことに気付いているのだが、声を上げようとはしない。考えている人は控えめ、なのではなく、黙っている方が都合がよいからである。


 あ、ところでこの数ヶ月の円高で大多数の日本国民はドルに対して30%ほど資産が目減りしたことに気付いているのでしょうか。円安デ海外旅行ガー、とか言ってる場合じゃないほどに大損しているのですが。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(8年目その4)

『賠償請求は民事でやれ? だったら何で刑事で情状酌量とかあるのさ?』


 僕は悪くない。(挨拶)


 こんにちは。逆境にヘラヘラ笑い出す、荒ぶる過負荷・風鈴製作者です。――――うん、これは恥ずかしい挨拶ですね、よく分かります。
 11月に『今秋は暖かい』なんて言っていたら、12月は実に冬らしい冬に。寒いのは好きなので、個人的にはこれで良いのだが、東京電力では一時電力供給が危うくなったりしたみたい。もちろんその日に予想していた電気使用量を大きく上回ったため、供給が間に合わなくなりそうだった、というのが正しい表現で、電力の供給限界を超えそうだった、という意味ではない。報道記事はもう少し正確な表現を心掛けたほうが良いと思う(が、どう読み取るかは読み手に任せますというスタンスなのだろう、きっと)。
 冬コミケには、当然、参加してきたのだが、まあこれといって異常はなく、予定では最後になるだろう『夢の中へ』を聞いて、周囲を見回して探し物をしてきた。ちょっと気になったことでは、3日目の列待機中に、東5トイレにノロウイルス罹患者らしい人物が吐いている、という情報が流れてきたことか。インフルエンザもそうだけど、疾く帰れ。
 そんなことよりも、今回は前代未聞の出来事があった。無論、“喪服の死神”(失笑)の件だが、コミケ開催中に誰もいない空間があるというのは極めて異様な光景だ。それだけでも言い知れない感情が沸いてくるが、反省会によると、無人のスペースにイタズラの手紙を置いた不届き者がいたようだ。愚かで暇な人間もいるものである。
 言うまでもないが自称・喪服の死神は現状で脅迫・威力営業妨害・殺人未遂を犯している(上智大に部外者が入り込んだのは不法侵入になるのだろうか?)。2chなんかで本人らしい人物がいろいろ動機やらを書き込んでいるようだが、どんな理由があろうと罪は罪だ。自分に正当性があり、何らかの被害を受けたというのなら、裁判を起こせばよい。たまにこういう労力の向けどころを誤っている犯罪者がいるが、多くの場合、それじゃ感情的に許せなかった、とかどうとか捕まってから供述したり、そんな風に自称・識者が犯人を擁護したりする。理解に苦しむ。この国は法治国家であり、犯罪の罪を量る上では、感情よりも法が優先されるのは当たり前なのだが。それが嫌だったら、出奔して無法地帯にでも行くしかない。すぐに身包み剥がされて殺されるだろうけど。


 よく言われる話だが、加害者の気持ちが考慮されるなら、被害者の気持ちはどうなるのか。その辺りのバランスが取れていないように思う。今回、コミケ準備会は警察とビッグサイト(=東京都)の極めて強い要請(会場貸さないよ?、という脅迫とも言う)を受けて、サークル参加と本の頒布を見合わせさせられたのだが、警察の介入があるとはいえ、本来、対等であるはずの準備会とビッグサイトの間で、一方的に要求を飲まされるというのは、少しおかしいのではないだろうか。安全の確保が最重要なのは理解できるが、明らかに被害者に鞭打つ行為であることには違いないだろう。実際にどうなっているのかは知らないが、ビッグサイトは準備会に少し返金するくらいが普通なのでは?


※このブログ内に当該事件の焦点になっている作品や作者の名前を記していないのはわざとです。別に贔屓にしている作品ではありませんが、こんなことで悪目立ちさせることもなかろう、と思っているので。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(8年目その3)

借り物画像

『ユーザーホスピタリティとは手段に過ぎないが、その影響範囲は受け手に限るものではない』


 デュフフ…。(挨拶@でもあきちゃんもウザ可愛いと思います)


 何やら今秋は暖かい。ここ数日でようやく、少し寒いかな、と思い始めた程度。家にある桜(not染井吉野)の剪定をしたいのだが、いまだ葉が茂っていて、着手できず。
 商売の目的とは、当然のことながら金銭を稼ぐことにある。お客様に喜んでもらうとか、誠意をもって取引を行うといったことは、主に取引相手として好感を抱いてもらい、次回の取引に繋げるための手段に過ぎない。ゆえに、極論するならば、確実に次の機会が望めないようなほんの一時の取引の場合、金品やサービスの授受のみを無機質に行い、それ以外の一切を排除することも是であると言えるだろう。
 ただしそれは取引相手に与える影響を語る上でのみ、言えることだ。
 どうせ次はないから適当でもよい、という考えは、別に妥当性がないわけではない。本当に、二度と関わることのない相手ならば、そうすることも自由だ。しかし、大抵の人間は浅はかで、すぐに慣れ、容易く堕落するものだ。ひとつひとつの取引に対し、逐一、慎重に思考し、合理的に動ける人間は稀である(※まったくいないわけではないが)。安易な怠惰は、そうであってはならない場合においても影響を与え、いずれ大きな失敗を生むだろう。
 商売における誠意とは、取引相手に対してだけではなく、自らを律することにも繋がる。情けは人の為ならず、という言葉があるが、あちらは、巡り巡っていずれ自分に返ってくる、という意味だが、誠意とは完全に自己のために必要なもののひとつだと考える。


 あ、『断裁分離のクライムエッジ』が2013年春にアニメ化だってさー。残酷表現の規制はともかく、髪の表現に手を抜いたら許さない。絶対にだ。