風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(17年目その1)

『愛情を注いだ相手は、そこに存在しているだけで愛を還してくれている』

 

 8年近く放置とかなかなかだよね。(挨拶)

 

 先に言っておくと、猫が嫌いな人、または猫が好きな人が嫌いな人は、回れ右してどうぞよろしく。この記事は猫キチと呼ばれるのを覚悟で書いています(別に猫に限らず、動物全般好きだけど)。

 昨日の昼頃、飼い猫が、旅立った。

 虹の橋を渡った、とかファンタジックな思想は持っていないので、〇んだ、とハッキリ書いてもよいのだが、特に最近(結構前からだけど)は残酷なことを直接的表現で言及するといろいろとセンシティブらしいので、旅立った、としておこう。

 ともかく飼い猫が去ったのだが、2002/08/29にウチに来た時点でトイレは自分でできていたので、まず間違いなく20歳は越えていただろう。完全室内飼いならば、かなり長寿になることも普通な時代なので、さほど珍しくもないだろうが、まあ長生きだった。

 ここ半年以外はコレといった病気もなく、健やかで、実に凡庸な雑種の黒猫だったが、最後に2つの点で風鈴製作者に爪痕を残した(引っ掻いたという意味ではない)。

 

 1つ目は、生きる、ということについて。

 ウチの飼い猫は、主に3月頃から体調を崩し、徐々に弱って、食が細くなり、足腰が立たなくなって、ここ1週間は立ち上がるのがやっとの状態だったが、それでも2日前までは自力で這うようにしてトイレに向かって歩いていた。

 …同じように、ほとんど歩けなくなるほどに衰弱した人間に、自分に、これができるだろうか? そう思わずにはいられなかった。

 そこには生きることに対する真摯さ、ある種の誇り、美しさがあるように感じられた。

 思えば、母も末期ガンでホスピスに入る直前まで、自身で家事をすることを止めなかった。定期的に真っ赤に染まった腹水を抜いてもらっているような状態だったのに(一応、名誉のために記しておくが、当時、すでに風鈴製作者が家事を引き継いでいたが、出社している間に、母がいろいろとこなしてしまっていたという話)。

 無理をすることが素晴らしいのではないし、助けを求めることが卑小だ、などとは微塵も思っていない。ただ、その意志を、本物の意志を持つことが美しい。

 そんな存在が、身近に2例もあったことに、心から感謝したい。

 

 2つ目は、愛とその対価について。

 愛とは無償ではない。こんなことを言うと、一部の人は怒り出すかもしれないが、風鈴製作者はそう思っている。少なくとも、それができるのは聖人の領域であって、とてもではないが一般的ではないだろう。

 だから飼い猫にかける愛情も、ある程度の見返りがあってのことだ。もちろん相手は猫でしかないので、十全な物や行動が返ってくるわけではない。それどころか、巷間言われている通り、猫とは勝手気ままな生き物で、面倒ごとを引き起こすことの方が圧倒的に多い。だが、猫に限らず、そこを織り込み済みで飼うのがペット飼育というものだろう。そういう考えでなくては、途中で絶対嫌になる(実際、そんな感じで投げ出す人は多いようだ)。

 要は、注いだ投資に対する普遍的なリターンは見込めない、ということだ。

 では何故人はペットを飼い続けるのかといえば、自身のペットに他にはない価値を見出しているからであろう。

 曰く、ウチの子は世界一可愛い、愛嬌がある、こんな芸ができる、言葉を理解してる、ああするとこうしてくれる等々、枚挙に暇がない。

 もちろん中には、それが真実に唯一無二のものもあるのかもしれないが、たいていはありふれたレベルのものに過ぎない。早い話が、飼い主の欲目贔屓目というものだ。思い込みでしかない。

 それが悪いと言っているのではない。情愛とは多くがそういった幻想に根差していて、普遍的価値が保証されているわけでないというだけのことだ。

 だから風鈴製作者は飼い猫のことを格別に可愛いとは思ったことがない。本当にない。もっと美人な猫なら余所にいくらでもいるし、もっと賢くて愛嬌のある犬は山ほどいるだろう。別に自身の飼い猫はブサ猫だったわけではないけれど(これがもう贔屓目かもしれない)、正直、全然賢くはなかったし、鳴き声は汚いし、かなりワガママだったのではあるまいか。

 でも一番大事なのは、余所のペットではなく、飼い猫の方だ。

 当たり前じゃないか、と思うかもしれない。風鈴製作者もそう思っていた。だって自分のペットなんだから一番大事でしょ?、というある意味で自己愛的な短絡的感情でそうなるのだと。

 だが、どうも違ったらしい。飼い猫の死期が近づくにつれて、そのことを思い知らされた。

 

 終幕に向かう飼い猫を見続けて、湧き上がる感情は『感謝』。 

 

 病み、衰え、粗相をし、獣医に通い、投薬点滴を行い、食べられる食事も狭まり、グルーミングもできなくなり、介護を要する面倒さとかかる費用の増大。人間や大型犬相手と比べれば、まだ楽とはいえ、それでも投げ出したくなる厄介さだった。

 だが、不満や憐憫、哀しみよりも、遥かに大きい『感謝』があった。

 悟ったつもりは無い。風鈴製作者はそんなものからは遥か遠い人間だ。

 ただ、そこにいてくれるだけで、愛を還してくれていたことに気付いた。

 20年間、触ったり触られたり、小突いたり、引っ掻かれたり、わりと本気のケンカをしたり、寝起きに突撃されたり、甘えてきたから撫でようとしたら踵を返したり、食餌をしないと思ったら以前拒否したモノを食べだしたり、訳の分からないことやイライラさせられることが山ほどあって、そのくせ、夕飯を食べていると先に食べ終わった飼い猫がすぐ脇に黙って座り込んでいた。

 その全てが愛おしく、そして飼い猫から愛を受けていた。

 行動の種類や目的が重要なのではない。ただ、そこにいてくれたことが大事だった。

 この感情は親が子に抱く、ただそこにいてくれるだけで幸せ、生きていてくれるだけでいい、というものに近いのだと思う。風鈴製作者も母から、それに類することを言われたことがある。

 今、ようやく、その気持ちが、ほんの少し理解できたような気がする。

 風鈴製作者は独身だが、広い世間の子持ち御夫婦の方々は、皆、こんな感情を我が子に抱いているのだろうか。その仔細を論じる資格は風鈴製作者には無いし、そのつもりも無い。ただ、そうであると良いと思う。そうであるなら、きっと子どもたちは幸せであろうから。

 

 飼い猫にそんなつもりは無かっただろうし、勝手気ままに生きていただけだろう。

 だが風鈴製作者はそこから気付きを得た。その価値は大きく、相手が人であろうと、猫であろうと、価値は変わらない。

 ありがとう。

 そこにいてくれて、ありがとう。

 教えてくれて、ありがとう。

 非科学的だけれど――――また、いつか、どこかで、会いたいよ。