風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その282+365+347)

『モノの価値はそれを手にした者が決める。それが趣味的なものならば尚更であり、予め定められた価値に意味はない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 トラベルチャーンス!(挨拶)


 今日は昨日とは逆で、朝の寒さは和らぎ、日中が寒い。太陽はほぼ見られず、雲に覆われた空は14時頃からポツポツと泣き出した。夕方には止んだものの、雲は晴れず。
 秋葉原を歩いているとたまにあることなのだが、同系統の中古品を扱っている店同士で、同じ商品の価格が数倍も違っていたりすることがある。別に片方が傷や不良があるということではない。仕入れ値の問題なのか、それとも単に実勢販売価格の認識にそれほどの差があるのかは知らないが、事実である(今日見かけたものは4倍差があった)。
 別にそのことに文句はない。片方がアコギだとか、そういうことは思わないし、本当に提示されただけの価値がその商品にあると判断するならば購入するだろう。そうでなければ買わないだけだ。仮に文句の声を上げるとすれば、それを店側に売り払った人間ではあるまいか(まあ、それも筋違いだが)。
 しかし店側が設定している金額が普遍的なものかといえば、けしてそんなことはない。価値というものはあくまでも所有者が決めるものだ。世間的に安価なものであろうとも、けして手放せないほどの価値を持つモノもある。そういう判断をすることが価値観を持つというものだ。そこに“定価”という概念は意味を為さない。


 風鈴製作者にもそういうものがいくつかある。そのひとつは多分、金銭にすればせいぜい1万数千円といったところだろうが、\1,000,000出されても誰かに渡す気はないし、地震にあったら必ず持ち出すだろう(いたって冷静かつ本気である)。街頭はもちろんネットオークションでもまったく見かけないなど、単に入手しづらいということもあるが、それ以外の感情が作用しているのは否めない。まったく論理的ではないが。