風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その345+347)

『年齢や立場の上下、あるいは用法の正しさなどを問題としている時点で、その敬語は“敬う”という本質を失っている』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 まだ慌てるような時間じゃない。(挨拶)


 夜明け前から雨が降り出し、少し肌寒い朝。雨は昼過ぎくらいには止んだか、気温もそれなりに上昇。湿度と合わせて寒くはなかった。
 たまに、敬語なんてものは自然に身に付くものだ、というセリフを耳にする。まったくその通りである。敬語はあくまで日本語の用法のひとつなので、言語習得の過程でそういう使い方をする言葉・用法があることは自然に学ぶはずだ。
 ただし、これは周囲が敬語を実際に用いていることが前提である。そして、それを実用するには、誰かを敬う、という感情が必要不可欠だ。以前に書いたが、誰かを尊敬するには、その対象者のどこかが自分より優れていなくてはならないと風鈴製作者は考えている。これは生物的に当たり前のことで、自らに利する要因のない人間にへりくだり、平伏する、あるいは教えを請うようなことはありえないからだ。生物とは本来、打算的なのである。
 年齢や立場が上だからといって、能力的に優れているとは限らないことは言うまでもない。では何故にそういった人間に対し敬語を用いるのかと言えば、その当人ではなく、その背景にあるもの(会社などの組織体)が自分に大きく影響するからである。ありていに言ってしまえば、敬語を使わないと損をするからであり、明らかに“敬う”という姿勢から生まれているものではない。


 別に損得感情で敬語を用いるのはよくないとは、まったく思っていない(意図としては敬語ではなく丁寧語と化しているとは思うが)。それで大多数の人が納得しているのだから、何も問題はない。しかし形だけの敬語が多いのは事実だろう。