風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その193+347)

『体力など、必要なだけあればよい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 パウッ、パウッ、パウッ、パウッ!(挨拶)


 またしても晴天。またしても、なんて書いているけれど、別に晴天が嫌なわけでない。しかし風鈴製作者は、若干、光に対しての耐性が低いらしく、朝日が直視できない(まともに目が開けられない)のもまた事実。…どうでもいいことだね。
 子供の体力低下が云々、という話はよく聞く話で、一昨日、発表された文部科学省の2005年度『体力・運動能力調査』を受けて、またも体力低下へ、みたいなフレーズが各新聞で乱舞している。
 対して、大人の体力がどうなっているのかは、まともに調査されたことがないように思う。ほとんどの大人は、学校などのように、大多数を一度に調査できるような環境にないため、調査事態が難しいので仕方がないといえば、その通りだが、しかしひとつの発想としても、誰一人、考えていないように思う。
 子供の体力が低下して、何が問題なのか、といえば、やはり将来的に、まともに働けるだけの体力を備えた社会人になれるかどうかが問題なのではなかろうか。少なくとも、運動能力の有無そのものは大した問題ではないはずなので、そう判断せざるを得ない。


 しかし、社会はどんどん機械化し、単純作業は人の手のいらなくなったものも多い。徐々に人間の体力が低下していっても、さほど問題にはならないのではなかろうか?(※健康に関しては、まったく別の問題だ)