風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その219+365+347)

『誰かに何かを伝えるなら、もっとも必要のものは誠実さだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 われても末にあはむとぞ思ふ。(挨拶)


 今日も晴れ。朝日が眩しい。すっかり日没時間が早くなり、17時頃にはすでに夜の帳が落ちる季節である。そんな夜長の半ば、雨が降り出した。
 育児の手法でよく耳にするのが“誉める”という手法だ。誉められることにより、子供はまた誉められようとして何かに対しやる気を持つのだ、という理屈だ。
 確かに一理ある考えだろう。子供は保護者に守ってもらっているという事実がある以上、何かを達成する → 誉められる = 保護者は喜んでいる = 守ってもらえる、という図式が成り立つからだ。子供にとっては、自分の利益になるからこそ誉められるとやる気になるのである。とても純粋な動機だ。
 ただ保護者の側はもっと不純である場合が多い。子供のため、その将来のため、とことさらに言い訳をする。しかし、まあそれ自体は別に問題なわけではない。問題なのは子供のためと言いながら、誉めるという行為そのものに捉われて、特になんということもないことでも誉めるようになることだ。賞賛には適正な根拠というものが必要だ。それのない賞賛とは一種の中傷・侮辱の類であろう。


 子供は大人が思っている(思い込んでいる)以上に聡い。誉めるだけではなく、叱るにしても諭すにしても、そこに根拠がなかったり、嘘やごまかしを含ませればその意図に子供は気付く。そうして子供は大人に失望するのである。