風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その226+347)

『同じデータ、同じシステムであろうと、同一とは認めない不思議』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 HAHAHAHAHAHA!(挨拶)


 快晴。心地よい陽気だが、先週よりは若干気温が下がってきたかもしれない。しかし、それでも身震いするような寒さではなく、風鈴製作者はまだ毛布一枚で眠っている。
 コンピュータを始めとしてあらゆる道具は、同一のスペック、同一のシステム、同一のデータを有していれば、それは同じものとして扱われる。これは当然のことだ。
 しかし仮に完全に同じ記憶、知性、肉体を持った複数の生物がいたとしたらどうだろうか?ほとんどの人間は、それらを同一のものとして扱わないだろう。
 もちろん、完全に同じものを用意することはできない。例えばあるサンプルから得た胚を使って、二体のクローンを作ろうとしても、必ず両者は違うものとなる。現状、どのような方法を用いても、まったく同じ生育環境を再現することは不可能だからだ。
 しかし、その二体を同一のものと認めないのは、そういう科学的限界に基いた検証からではない。単に人間は、そこに二体が別々の“モノ”として認識されるから、それらは別のものだと考えるのである。
 では、多重人格のように、見かけは一体だけれども、精神が複数存在する場合はどうだろうか?答えは――――まあ、控えることにしよう。


 そもそも、不必要に徹底して個人を識別しようとするのも、人間固有の特性だといえるだろう。他の動物はそんなことはしない。せいぜい、害があるかどうか、食べられるかどうか、といった生存に必要なだけの分類しかしていない。