風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その20+365+347)

『自らが唯一の人格を有すると信じることなど幻想だ。そんな保証はどこにもない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 快晴、とまではいかないが、まあそこそこ晴れ。とても暖か。木々もすっかり緑づいてきている。毎年のことだが、この時期、植物が葉を伸ばす速度は驚愕モノだ。しかし植物たちにしてみれば、常時あちこち動き回っている人間の方が驚きだろう(前にも似たようなことを書いた気がする)。
 解離性同一性障害とは、多くの場合、強度の心的外傷を受け、それから逃れようとする結果として、自己同一性を損ない、あたかも第二(あるいはそれ以降)の人格を形成したかのようになる精神的疾患である。
 一般に人間は大人になるにつれ統一された記憶と自我を持つとされているため、こういった状態を障害とみなすが、しかし心的外傷により所謂多重人格のような状態になるのならば、多くの矛盾に満ちた社会に生きている限り、それを許容するために、誰もがストレスからの緩衝材としての人格を宿していると考えられなくもないのではなかろうか?


 どういったレベルのモノを“人格”と呼ぶのかは、その定義によると思うが、まったくの統一された一個の人格では、矛盾に対応しきれなくなるのは間違いない。