風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その6)

『同じ時代、同じ国、同じ社会に生きている人間の本質は、世代が違おうと、そうそう異なるものではない』


 警察に関する出来事が多かった。一般参加者が会場から通報するケースがあった。「友人が2冊本を買ってくるはずだったのに1冊だけだった、詐欺だ!」と、110番してパトカーが来る。警察も通報されたからには来ないわけには行かない。(挨拶@コミケ79反省会)


 今年は12月中旬過ぎから寒い日が多い。特に最低気温が3℃以下の日がしばしばで、現在、完全夜型の風鈴製作者には辛いところ。…寒さそのものではなく、電気代が。
 つい最近、20代前半の女性に、貴方くらいの世代から見て、私たちくらいの世代って、やっぱり全然違うように見えるんですか?、という質問をされた。目的語が無かったが、多分、感性とかものの考え方とか、そういったことだろうと思い、その意味で回答。風鈴製作者曰く、あんまり変わらない、同じようなものだよ。
 以前にも書いたが、風鈴製作者が彼らくらいの年齢の頃……つまり大学生くらいのとき、同世代はとにかく集団の和を重視していた。だからサークルなどで宴会が行われれば、よほどの用事がない限り、参加が義務付けられていたようなものだった。そこからはみ出した人は非難されることが多かったし、ほどなく姿を消してしまうこともままあった(※命が消されたとかそういう野蛮な話ではないのでご注意を…)。
 一方で、3学年下辺りから、あまり宴会に参加せず、自由に行動するサークル員が増えた。このことについて風鈴製作者の同学年が非難していたことは以前にも書いたとおりだが、かといって彼らがまったくの個人行動を取っていたのかといえば、そんなことはなく、彼らには彼らの協調性における集団行動があった。それまでもっぱら連絡用であった携帯をコミュニケーションツールとして使うようになっていたのだ。
 さらにここ数年の学生を観察してみると、mixitwitterなどで、日常で顔を合わせている友人と、わざわざネットワーク上でも会話している(個人的には、そんなにべったりで疲れないのかな、と思っているが)。
 使っているツールは異なれど、そこにあるのは、集まっていたい、という衝動だ。あえて違う部分を上げるとすれば、他人との距離の取り方が変化してきているように感じられるが、それはそういうやり方を社会全体が許すようになってきているからだと思う。昔は先輩や上司に対して露骨に距離を取るなんてできなかったものだ(実際にはできたが、その結果、公然と何らかの制裁を食らうのが当たり前だった)。使われるツールも、直接対面するものから、間接的なものになっているし、適度な距離を取りやすいように変化はしている。ただし、――――変化はしているが、本質は変わっていない。
 同じ環境下で生きているのに、たかだか10年やそこらの年齢差で、人間の本質はそんなに違わない。さて、では彼女は何故そんな質問をしたのでしょうか? 考えてみると良い(彼女自身が)。


 風鈴製作者? 単独行動、上等。個人主義、万歳の人ですが、何か?(念能力判定でも特質系って言われるんだぜ?)

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その5)

『人は空気よりも経験を重視する』


 そして相変わらずの、なのは完売。(挨拶)


 まあ、例によってコミックマーケットに行っていたわけですが。
 最近は昔ほどゲームはしていないし、あまり企業のグッズそのものにも魅力を感じなくなっているので、足が遠ざかっていたのだけれど、冬はカレンダーを手に入れるため、初日に企業ブースに行くのは例年通り。ただ、ここでアレな感じの参加者発見。
 あるブースでガチャガチャイベントをやっていた(これだけでどこか判るなぁ…)のだけれど、そのイベント自体がちょっと面倒な手順を踏んでいたので、かなり時間のかかるものになっていた。当然、その間、待機列は外周で待っているわけだが、イベント自体が15時開始だったため、気温は下がり始め、おまけに日が翳ってしまい、とても寒々しい状態に。しかも16時過ぎになってから、ガチャの玉が底を突き始め、待機列後方の人たちは回せない可能性がスタッフから告知された。
 しかし、風鈴製作者はもちろん、並んでいるほとんどの人はよく訓練されているため、不満は抱きつつも、静かに待機 or 自己判断で黙って去る。だが、ここでひとりの青年(20歳くらい)がファビョった(“ファビョる”の意味が解らない人は、“キレる”と解釈してもよい)。何度もスタッフを呼びつけては大声で文句を言い、説明を求める。もちろんそんなことをしたところでガチャの玉は増えないし、青年の順番が早くなるわけではない。
 コミックマーケットのことをよく知らない人ならば、そのくらいの抗議をするのは普通ではないか、と思うだろうが、残念ながらコミックマーケットは普通の場所ではないのである。そもそも待機列を形成する時点で人数を確認することが困難なのだ。何故ならば列に並ぶ人々は三々五々バラバラに集まってくるからである。他にも多数の参加者がひしめいている中、その人数を確認する時間も場所も余裕も人員も存在しない。
 ここ数年、いわゆる一般人(重度のオタクではない人)の参加が増え、混雑に対するものや、並ぶという行為そのもの、さらには同人誌って何ですか?、などという、それまででは考えられなかったような質問やクレームが発生するようになったらしい(今回のカタログには、前回コミケ78における実話として、Pixivの絵だけスタッフに見せて、このサークルはどこか、という質問し、それに答えられないと、使えない奴、と舌打ちした参加者が掲載されている)。あくまで個人的に思っているだけだが、どうも一般社会がありとあらゆる面で親切になり過ぎていて、それが当たり前の状態になっているために、少しでも思い通りにならないことに耐えられないのだと思われる。(一応、書いておくが、これはキレやすい若者がどうこうという問題ではない)。
 最近ではゆとりという言葉はただの悪口になっているようだが、本来は、学業だけでなく日常にいたるまで、幅広く様々なことを許容され、許容されすぎたがゆえに他者との軋轢に耐えられない、あるいは軋轢を恐れないかのような振る舞いをしてしまうようになってしまった人間を、ゆとり教育になぞらえてゆとりと呼んでいたと思う。そういう意味で件の青年は明らかにゆとりであったし、見事なまでに空気が読めていなかった。何しろ周囲の参加者どころか、一緒に並んでいる友人らしい人物の迷惑顔にすら気付いていないのだ。きっとあんなことを繰り返していれば周囲の人間は離れていくだろうし、誰も彼のことをまともに相手にはしなくなる。手遅れになる前に、青年がそのことに気付けばよいのだが…。


 なお2日目は不参加。そして本日3日目は全力全壊(誤字ではない)。去年は母のことがあったので早めに切り上げていたが、今年は何の制限もなく予定を組んだ――――ら、やり過ぎた。回ったサークル数50以上。接収本およそ7kg。…重かった。配置のせいか、東も西も混んでたねー。そしてゴキブリホイホイ(渡り廊下)はまた詰まってたねー。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その4)

『人は穏やかになった。世界平和は遠くはない』


 始解とか卍解とか虚化とか無月とか ド ン とか。(挨拶@もう50巻目前なんですね)


 さあー、年末も押し迫ってまいりましたぁ! …10月に父親が死にました。いやマジで。
 前回、2010年は怒涛の展開と書いたけれど、本当にハチャメチャが押し寄せて留まることを知らない今日この頃、いかがお過ごしでしょうか、風鈴製作者です。転勤もしたらしたで、すぐにまた異動だし、異動先は結構、激務だし、上記の理由から引っ越してものの数ヶ月もしないうちに今度は実家に引っ越したりで何が何やら。全然、家の中が片付かないから、コタツを出したのも昨日のことだったり。まあ、寒いのには強いし、12月にしては暖かな気候だったので、さほど問題はなかったのだが、しかし飼い猫が寒いのか、それとも寂しいのか、風鈴製作者の肩に乗って離れないという新芸を覚えたり。
 ところで何やらお隣の国では北と南で戦争未満の小競り合いを繰り返しているようで、それに呼応して米軍がしゃしゃり出てきて韓国軍や自衛隊と合同演習をしているし、北の国の報道も相変わらず、?☆Иυ●£ニダ!朝鮮語、解りません)、と断固たる対応を取るという意を表明しているのだが、今のところ、どちらも宣戦布告はしていないし(※朝鮮戦争は形式上まだ続いているから、もし再開されても宣戦布告は行われないことは理解している)、都市部への攻撃など、大々的な戦闘行為も行われていないようだ。
 この状態は近現代の歴史から見れば、かなり平和的な流れではないだろうか。最初に北の国からの攻撃を受けた延坪島は、人口1500人ほどの小さな島とはいえ、住民の存在するれっきとした韓国の領土だ。しかも今回の件では民間人の死人まで出ている。40年以上前ならば間違いなく戦争に突入していたと思う。もちろん、戦争とは主に何らかの利益を得るために行う政治的行為であって、怒りにまかせて行うようなことではないが、半島における民族的意義やそれを掲げることによる政治的影響などを考えると、戦争になってもおかしくはなかっただろう。
 もちろん今後も他国の介入も含め予断は許さない状態だろうが、少なくとも、自国民の安全を守るため、と声を上げて、小を保護するために大なる犠牲を出してしまうような、国家として愚かな事態にはならないと思われる。韓国内の世論がどうなのか詳しくは判らないが、それでも政府に対する不満から暴動になったりはしていないようなので、とても冷静でよく考えているのだと評価できる。穏やかで平和的だ。


 …でもね、住民がいないとはいえ、不法占拠をされて前線基地化まで進められているのを黙っているのは、ただの馬鹿だと思うのですよ。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その3)

『人の価値は死んだときどれだけの人が泣いてくれるかで決まるが、その存在力は死後にどれだけの影響があるかで定まる』


 3ヶ月半ぶりに書き込もうとしたら、編集画面のデザインが変わってたZE!(挨拶)


 生きてます。取りあえず生存報告をば。
 なんやかんやとこの3ヶ月いろいろとあって、このブログから遠ざかっていたけれど、今日も風鈴製作者は元気です。
 …などと「拝啓、お袋様。今日も息子は元気です」みたいな書き方をしてみたが、そもそもブログがストップした当初の理由はその母親なのであるが、実は去る6/2に他界した。数年前にガンを患い、1年ほど前に再発し闘病していたのだが、抗がん剤も効果がなくなり、最後は板橋にある豊島病院の緩和ケア病棟で息を引き取った。入院10日目で早々に世を去ったのだが、それまでは自宅で在宅医療を受けつつも、可能な限り家事をこなし、懸命に生きていたように思う。尊敬すべき、そして、誇るべき母だった。
 親戚の幾人かはしきりに、可哀想に、なんて口にしていたけれど、全力で生き抜いた人間に対して、よく知りもしない他人が哀れみの感情を向けるなど不可解だ。たとえ早世であろうと、悔いの残る人生だろうと、一生懸命生きた人は、断じて、可哀想などではないだろう。


 まあともかく、その前後で内側にも外側にも不快なことが山ほどあったものの、ある程度の整理がついた後、ちょっと引越しをしたり、その関連で7年ぶりに一時的にネット断ちしてたり(今はWiMAXの無料レンタルで繋いでいる)、デススマイルズ2Xでキャスパー使ってスコア全国2位に躍り出てみたり(※7月下旬時点まで)、現在進行形で転勤の準備が進んでいたりで、風鈴製作者の2010年は怒涛の展開を見せている。多分、人生最大の荒れ模様だろう。ある意味、楽しい。噛み締めようと思う。


風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その2)

『諍いの原因は“私は貴方とは違う”であるが、そこにある感情は1種類ではない』


 海兵隊と第七艦隊が本気になったら日本なんて半日保たないのでは?(挨拶@そんな超・戦力が抑止力にならないとでも?)


 今月に入って以来、穏やかな気候が続いている。子供の日には東京でも25℃を越えたりとなかなか風鈴製作者を苦しめてくれる。しかし今日の朝方は10℃近くまで気温が降下するなど、東・北日本では軒並み寒気に見舞われた。山間部では降雪も多かったようだ。
 議論を行う上で、前提としてけして崩せない条件を相互確認しておくことは当然のことだ。例えば予算の割り振りを行う場合ならば、使える総額を確認しておかなくてはならないし、家を建築するならば、手配可能な資材を考慮した上で設計するだろう。こういった前提条件をクリアできないような絵空事を口にして憚らない行為は、議論とは呼べない。
 しかし、少なくともここ15年以上、そういう議論とは呼べない行為を各所で延々と繰り返している議題がある。いわゆる『最近の若者は』的議論である。
 大抵の場合、当初は互いの問題点などを挙げて、その点について相互に意見を述べているのだが、中盤になると必ず出現するのが、年配の方の“私たちが若い頃は…”という発言だ。こういった発言が出た瞬間に議論は破綻へと急降下する。当然だ。何故なら現在は“私たちが若い頃”ではないのだ。それはとうに過ぎ去ってしまった時代であり、現在ではまったく状況も条件も違う。そんな異なった条件化での体験談など、生理的現象などのごく一部の例外を除いて、議論上、何の意味も持たない。そんなことくらい容易に理解できることのはずなのだが、一向になくなる気配はない。多分、そういう人たちは初めから議論をする気などなく、自分の主張を押し通したいだけなのだと推察するが…。


 もっとも風鈴製作者とて、ほんの数年ばかり年下の層に、あ、この子らは自分たちの年代とは違うんだな、と思うことは、大学生の時分から今まで多々あった。例えば、サークルの飲み会への参加意欲が低い、などが挙げられるのだが、このことに風鈴製作者と同年代の一部は口々に不満を漏らしていた。もしかしたら、しきりに不満を漏らしていた彼らは数十年後には『最近の若者は…』と言ってしまう中高年になるのかもしれない。――――酔狂にもこのブログをチェックしているらしいM田くん、貴方のことですよ?


※この国の歴史において、文章上に『最近の若者は…』と否定的に記されたのは清少納言枕草子らしいので、どうも年配の方による、異なった常識や文化を持った若年層への懐疑や嫉妬、あるいは羨望を込めた定型句なのではないかとも思われる。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その1)

『人の価値は意思そのものにあり、すなわちどこかへ向かおうとすることである』


 浅はかなり…。(挨拶@椎名っちが↓)



 先月も同じ事を書いていたが、今月も寒暖の差が激しく夏日寸前の次の日には最高気温が10℃なんて日もあった。その影響で各地の植物系イベントは混乱し、野菜などが高騰している。キャベツ1個\250とか買う気がしない。しかし、そんな状態もいよいよ終わり、GWは快晴かつ暑くなるようだ。…チッ。
 人間社会には法律を初めとした、さまざまなルールがある。組織と称せるものならば大小問わず、少なからず決まりごとが存在するだろう。もちろんそれは複数の人間が集まった場において、好き勝手な行動を制限し、全体の安全と安定を維持するために存在するものだ。
 言い換えると、ルールとは個人の意思を制限するためのものである。もちろんそれが適正であれば、いくらかの不満を内包しながらも、集団はほどほどに円満に運営されていくだろう。しかし実際には適正値を見つけ出すことは困難であり、そこに至るまで時間もかかる。多くの場合、些細な出来事が原因で過剰な束縛を課したり、あるいは意図的により不自由になるように解釈をする勢力が発生する。人間は不自由であるほうが安心できるという心理がこういった現象を生むようだ。
 当然、ルールの必要性は言うまでもないが、ただ、それを疑い、逃れようとすることを止めてはならない。ルールなどの束縛の中で停滞することも時には有用だが、しかし、摂理として、人間は常に変化していくものだ。永久に停滞、すなわち停止することはできない。それができるのは死んだときだけだ。人の価値、生の価値とは“動く”ことである。そうであるべきであると同時に、それから逃れることはできないのだ。“動く”ことによって危険が増すとしても、その成否を問わず、そこには人の輝きとでも呼ぶべきものが在る。


 そもそも、今現在がどんなに安全だと思われ、安心できるような状態だったとしても、それは幻想に過ぎない。誰もそんなものは保障していないし、たとえ自分やその周囲が停滞している(ように見える)としても、そのさらに外側は常に動的だ。接している部分はそこに巻き込まれ、動かざるを得ない。

風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(5年目その17)

『目的を目的とする肥大した自我』


 Core i5、快適だよ。でも性能を活かしきれないよ。エンコードしてもそれほどでもないよ。――――でもプリキュアのサイト見たらCPU使用率が20%も跳ね上がったよっ!?(挨拶)


 今年の初春は気温が上がったり下がったり、強風が吹いたり忙しい。そういえばその強風が原因で鶴岡八幡宮の神木であるところの大銀杏が倒れ、修復不可能らしいのだけれど、その木を複製して、また同じ場所に植えようという意見があるようだ。個人的には、たとえ根元から若木が伸びず、このまま朽ちてしまったとしても、別の銀杏を新たな神木として据えればよいと思うのだが、DNAレベルで同一でなければならない理由があるのだろうか? 不思議。
 社会的なルールや決定事項を覆そうと集団が活動を興す場合、その構成は大きく分けて3つに分かれる。


1、その目的を達成、ないしは活動することで、当初の目的以外の部分で利益を得る者
2、よく解っていないけれど、なんとなく参加している者
3、目的を達成するためにこそ参加している者


 実のところ、多くの場合において、集団の大多数を占めるのは1と2だ。3のように純粋に目的のために心血を注いでいる人間はほとんどいないといっても過言ではないだろう。例を挙げるならば、かつてこの国で一世を風靡した学生運動において、本気で理想の国家を目指していた人間などほんの一握りに過ぎないことは明らかだ。目的を明確に抱き、信念を持ってそこに邁進する人間など稀なのである。
 ただし、かといってそれが必ずしも正しいのかといえば、無論、そんなことはない。過ぎた信念は、より早く確実に目的を達成しさえすればそれでいい、という狭視野に陥りがちだからだ。手段を選ばない、とまではいかずとも、あまりに過激で急進的な方法で事に当たると、周囲からの反発を招くことは間違いない。そういうやり方は現代社会では受け入れてもらえないし、無関係な周囲に被害が及んだ場合にはテロ行為の謗りを受けるだろう。


 当然、穏便な方法ばかりでは、この多様化した社会では活動自体が埋没してしまい、目的の達成が不可能と思われることがほとんどだ。しかし、それでも過激で暴力的な手段に訴えるよりは達成の可能性があるだろう。人の活動の影響はけして0にはならない。手間や時間はかかるし、あるいは活動している本人は目的が達成された瞬間を目にすることがない場合だってある。大きなルールや決定を覆すとは、それくらい遠大な目的である。


 −−−−逆に言うならば、過激で暴力的な手段に訴え、早期に結果を求める人間は、目的が達成される瞬間を自身で観測するということが目的になっているとも考えられる。