風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その1)

『人の価値は意思そのものにあり、すなわちどこかへ向かおうとすることである』


 浅はかなり…。(挨拶@椎名っちが↓)



 先月も同じ事を書いていたが、今月も寒暖の差が激しく夏日寸前の次の日には最高気温が10℃なんて日もあった。その影響で各地の植物系イベントは混乱し、野菜などが高騰している。キャベツ1個\250とか買う気がしない。しかし、そんな状態もいよいよ終わり、GWは快晴かつ暑くなるようだ。…チッ。
 人間社会には法律を初めとした、さまざまなルールがある。組織と称せるものならば大小問わず、少なからず決まりごとが存在するだろう。もちろんそれは複数の人間が集まった場において、好き勝手な行動を制限し、全体の安全と安定を維持するために存在するものだ。
 言い換えると、ルールとは個人の意思を制限するためのものである。もちろんそれが適正であれば、いくらかの不満を内包しながらも、集団はほどほどに円満に運営されていくだろう。しかし実際には適正値を見つけ出すことは困難であり、そこに至るまで時間もかかる。多くの場合、些細な出来事が原因で過剰な束縛を課したり、あるいは意図的により不自由になるように解釈をする勢力が発生する。人間は不自由であるほうが安心できるという心理がこういった現象を生むようだ。
 当然、ルールの必要性は言うまでもないが、ただ、それを疑い、逃れようとすることを止めてはならない。ルールなどの束縛の中で停滞することも時には有用だが、しかし、摂理として、人間は常に変化していくものだ。永久に停滞、すなわち停止することはできない。それができるのは死んだときだけだ。人の価値、生の価値とは“動く”ことである。そうであるべきであると同時に、それから逃れることはできないのだ。“動く”ことによって危険が増すとしても、その成否を問わず、そこには人の輝きとでも呼ぶべきものが在る。


 そもそも、今現在がどんなに安全だと思われ、安心できるような状態だったとしても、それは幻想に過ぎない。誰もそんなものは保障していないし、たとえ自分やその周囲が停滞している(ように見える)としても、そのさらに外側は常に動的だ。接している部分はそこに巻き込まれ、動かざるを得ない。