風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(5年目その17)

『目的を目的とする肥大した自我』


 Core i5、快適だよ。でも性能を活かしきれないよ。エンコードしてもそれほどでもないよ。――――でもプリキュアのサイト見たらCPU使用率が20%も跳ね上がったよっ!?(挨拶)


 今年の初春は気温が上がったり下がったり、強風が吹いたり忙しい。そういえばその強風が原因で鶴岡八幡宮の神木であるところの大銀杏が倒れ、修復不可能らしいのだけれど、その木を複製して、また同じ場所に植えようという意見があるようだ。個人的には、たとえ根元から若木が伸びず、このまま朽ちてしまったとしても、別の銀杏を新たな神木として据えればよいと思うのだが、DNAレベルで同一でなければならない理由があるのだろうか? 不思議。
 社会的なルールや決定事項を覆そうと集団が活動を興す場合、その構成は大きく分けて3つに分かれる。


1、その目的を達成、ないしは活動することで、当初の目的以外の部分で利益を得る者
2、よく解っていないけれど、なんとなく参加している者
3、目的を達成するためにこそ参加している者


 実のところ、多くの場合において、集団の大多数を占めるのは1と2だ。3のように純粋に目的のために心血を注いでいる人間はほとんどいないといっても過言ではないだろう。例を挙げるならば、かつてこの国で一世を風靡した学生運動において、本気で理想の国家を目指していた人間などほんの一握りに過ぎないことは明らかだ。目的を明確に抱き、信念を持ってそこに邁進する人間など稀なのである。
 ただし、かといってそれが必ずしも正しいのかといえば、無論、そんなことはない。過ぎた信念は、より早く確実に目的を達成しさえすればそれでいい、という狭視野に陥りがちだからだ。手段を選ばない、とまではいかずとも、あまりに過激で急進的な方法で事に当たると、周囲からの反発を招くことは間違いない。そういうやり方は現代社会では受け入れてもらえないし、無関係な周囲に被害が及んだ場合にはテロ行為の謗りを受けるだろう。


 当然、穏便な方法ばかりでは、この多様化した社会では活動自体が埋没してしまい、目的の達成が不可能と思われることがほとんどだ。しかし、それでも過激で暴力的な手段に訴えるよりは達成の可能性があるだろう。人の活動の影響はけして0にはならない。手間や時間はかかるし、あるいは活動している本人は目的が達成された瞬間を目にすることがない場合だってある。大きなルールや決定を覆すとは、それくらい遠大な目的である。


 −−−−逆に言うならば、過激で暴力的な手段に訴え、早期に結果を求める人間は、目的が達成される瞬間を自身で観測するということが目的になっているとも考えられる。