風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その263+347)

huurin_maker2006-12-19

『構造そのものに無駄と無意味と矛盾があるからこそ、その非論理に気付かない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 …え?あれっ、ちょっ…!?(挨拶@


 朝からまったく陽が差さないほどに、分厚い雲に覆われていたが、昼過ぎから晴れ始め、昼間よりも、むしろ夕方の方が暖かだった。
 現在、公立の学校では完全週休2日制が採用されている。それとゆとり教育の実施に伴い、全体的な学力低下に見舞われた世代が大学生になる時代が到来し、いろいろと大学側も苦労しているようだ。そんな折、こんな記事が(要約されたブログがあるので、コッチでも)。
 高校の未履修の関連で、以前にも少し書いたが、個人的には無理に最高学府まで進んで勉強しなくてもよいのではないかと思う。別に義務ではないのだし、実際、大学で学ぶ“学問”が仕事上で役に立つことはほとんどないのだから。仮に仕事上、必要なことがあるとすれば、それはすでに“学問”ではなく社会常識的な知識であって、本来、わざわざ大学で学ぶようなことではない(風鈴製作者の経験上、一般的な社会人に必要なのは、深く狭い知識ではなく、広く浅い万能性だ。大学とは明らかに前者を学ぶ場であり、後者のような能力は誰かに学ぶものではなく、自ら様々なものに興味を持って開拓していくものである)。
 もちろん、急に方針転換し、入試のハードルを高くすれば、大学は経営が成り立たなくなり、企業も新卒の振るい分けが困難になるだろう。しかしいい加減、少しずつでもそれらを変化させていかなければならない時代になっている。現状、すぐに行える打開策としては、大学全入でも構わないので、(以前から言われている通り)卒業のハードルを高くすることだ。そして劣等な人間の無闇な救済などせず、まともな知識も身についていない学生には単位など与えない。そうやって大学をごくごく当たり前の“学問の場”に戻すことによって、健全な経営と学問がなされることだろう。海外の大学は昔からそういうシステムだ。それが最も合理的だからこそ、そういうやり方を採用しているのである。


 他に問題点を挙げるならば、相変わらず、社会全体として、一流大学に入らなければ一流企業には入れない、という奇妙で非論理的な認識をしていることだ。まあ、これは戦後半世紀に渡り囚われてきた固定観念なので、まだまだそこから抜け出すには数十年はかかるだろう。風鈴製作者が老年に差し掛かる頃には改善していることを、今から希望しておこう。(※この締めの文章で、風鈴製作者が何を言っているのか分からない、あるいは強い反発を感じる人は理解を諦めるか、スルーして欲しい。詳しく説明する気はないし、多分説明しても無駄でしょう)