風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(8年目その2)

『豊かさとは何だろうか。少なくとも主張するものではない』


 さもなくば、死あるのみっ!(挨拶@昔はよく見かけた漫画セリフ)


 暑い日が続くが、わずかに空気は秋の風を含むようになってきた。しかし、ほとんどの人にはそれが分からないらしい。湿度とか、8月上旬に比べれば、少し低くなっていると思うのだが…(未確認)。
 一昨日くらいに見かけた記事で、最近は金銭的豊かさよりも、心の豊かさを優先する傾向が見られる、という趣旨のものがあった。その内容については、正直、流し読みなので触れないが、しかし主題となっている“心の豊かさ”とは何だろうか。
 すぐに思いつくのは、満足感や充足感といった言葉だが、しかしこれらは物欲が満たされた場合にも適用される言葉だろう。おそらく心の平安、つまりは穏やかな心持ちといったことだと推察するのだが、しかし穏やかさとは、ある種の余裕がなくては得られないものだろう。少なくとも切羽詰った人間が穏やかであろうとするのは、相当に難しい。それは、最早、悟りの境地に近いのではあるまいか。 
 当然のことながら、余裕というものは、最低限の生活が維持できていなくては生まれないものだ。衣食住が充分であり、なお余剰な体力や精神力、時間などがある場合に感じられるものであると考えてよいと思う。しかし、そういった状況というのは、やはり充分な金銭が得られているということが前提になっていることがほとんどだ。これは何も資本主義に限らず、どんな経済主義を採っている地域でも同じことだ。資本主義以外では、金銭の代わりに、対価として充分な労働力、ないしは物品を支払っているのだから。
 そういった“財”がなくては、やはり余裕は得られず、引いては“心の豊かさ”の追求などおぼつかない。
 こういうことを書くと、浅ましい、とか、それこそ、心が貧しい、とか言われるのだろうが、しかしそれが道理だろう。そもそも心の豊かさがどうこうと一般的に言われだしたのはごく最近のことで、それまではとにかく物質的な豊かさの追求が最優先だった。社会が発展する以前の世界、ここでは仮に中世以前とするが、心の豊かさの追求など、上流階級や一部の知識人が口にしていた程度で、一般人はそんなこと考えることもなかっただろう。何故なら生きることに精一杯だったからだ(その証左に、19世紀半ば以前までの人類総人口はほとんど横ばいだ。少なくとも物的に豊かではなかったと断言できる)。
 もちろん上記の記事が、最低限の生活維持を前提としているのは理解している。しかし、本当の意味で、心の豊かさの方が財を稼ぐことよりも優先されることなど有り得るだろうか。そんなに人間の欲望は浅く軽いものだろうか。かなり懐疑的にならざるを得ない。


 ところで風鈴製作者は、自分の心が豊かだと自覚している。何故なら多趣味な上に、オタクに分類される人間だからだ。好きなものを好きなように追っている人間の心が、豊かでないはずがない。昭和オタクは卑屈なネタが大好きなので頻繁に自虐的な表現をするが、実のところ、オタクはどんな人種よりもリア充だと思う。――――って、これ主張になってるね…。