風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(6年目その7)

『まともな人間が怒ることは、そう軽くはない』


 バカ王子、うぜぇーっ!(挨拶)


 今日の東京地方の最高気温は9℃ほどだったのだけれど、ここしばらくは0〜6℃くらいの気温が続いていたので、あんまり寒くは感じず。乾燥で手荒れが酷いけど。
 昔からたまに「そんなに怒るなよ」とか「なにムキになってんの」みたいなことをヘラヘラした調子で言われることがある。そういうときは大抵、風鈴製作者が何事か抗議しているときで、別段、怒っているわけではない。
 おそらく抗議しているという性質上、真剣な表情(≒無表情)でハッキリとした口調で話している(こうしなければ話の重要さが伝わらないことが多いため、意識的にこうしている)ことが、相手にとっては責められているように感じられるか、もしくはそもそも当該の案件で抗議されること事態を不服に思っているかのどちらかだろうが、しかし、どうも相手の態度を見ている限り、後者ではないようだ。抗議そのものに不服があるなら、そう言えば良い。
 別にこちらの抗議に対して、相手がどのように対処するかはどうでもいい。その対処に対して、こちらも相応の対応をするだけだ。だが、どうも前述したような態度を取るような人間は、そもそもそれを抗議だと受け取っていない節がある。とにかく怒っている人を宥め透かしてこの場を凌ごう、という意思を感じるし、しかもそれが平和的で友好的だと思っているようだ。
 この日記内で幾度も“平和”という言葉を使っているが、少なくとも、抗議を抗議と思わず、ただ感情を爆発させているだけだとタカを括って逃避していることは平和的ではない。そういう誤認は多々あるが、それも過ぎれば大きな火種になる。他人と論争を交わすことは、一見、平和的ではないようだが、では争わないことが平和的なのかといえば、断じて違う。何故なら、現実には争わねばならない場面がたくさん存在し、それぞれの主張を展開しなければ、妥協点を見つけることもできないからだ。相互の妥協点を見出しもせず、放置するのはとても危険な状態だ。平和だなどと、けして言えない状況である。


 そもそも、怒る、という行為を随分と軽く捉えている人が多いように思われる。多分、物事に本気で取り組んだことのない人がそういう人格になるのだろう。本気になったことがないから、本気で怒った経験もないのだ。人間は自身で経験したことのない状態は、なかなか理解できないものである。