風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(5年目その16)

『誰かのために生きることは美徳ではあるが、しかし、最後まで追求できるのは、自分のためのことである場合が多い』


 何がクニだよ、クンニしろ、オラァァァ!(挨拶@エデンの檻6巻を参照。意味なくク○ニになってるけど)


 今年は何やら寒い日が多い。また、気温もさることながら、2月の東京の降雪日が、今日で9日を記録。2日に1日は微量ながらも雪が降っている。おそらくだが、今までの人生で一番降っている回数が多い。もっとも、積もってもほんの数センチで量は大したことはないし、その日のうちに解けてしまう程度だ。すでにエルニーニョ現象が観測されているようなので、その影響の結果である可能性が高い。
 たまに、人間は自分以外の誰か・何かのためであるからこそ力を発揮できる、みたいな話を耳にする。風鈴製作者個人としては、その意見に関してはそれほど肯定的ではないにしろ、まあ確かにそういった効果は存在すると思う。好きな人が何らかの助けを求めており、それに対して、見返りが期待できなくとも常にない能力を発揮して応えることはあるだろう。
 ただ、だからといって自分本位に動いている人間が、十全の能力を発揮できないのかというと、大いに疑問を呈したい。通常、自己の確立というものをしている人間は、何らかの目的意識や誇りというものを持っている。これらは言い換えれば“譲れない一線”であり、それを否定することは自己の否定でしかない。
 また、誰か・何かのために行動するというのは、ある側面から見れば、その行動の責任の所在を自分以外に転嫁できるということでもあるだろう。例を挙げるならば、好意でやったことは結果として失敗しても許される、といった思想だ。こういった考えを抱いている人間は相当多いように思われる。同時に、誰か・何かという自分以外のものは、極論するならば、いざというときには捨て去ることができてしまう。逃げることが比較的容易なのだ。
 そういう事実がある以上、本当に自己を確立している人間ならば、自分のことにこそ力を発揮し、最後までその結果に責任を負うのではないか。もちろん“自己”に基づいた誇りが、自分以外のものに向いている人間は、きっと自分以外のためにこそ能力を発揮し、その責任も自分で負うのだろう。――――しかし、そんな人間がいるとは思えないし、いたとしても、はっきり言ってそれは異常者だ。衛宮士郎のそれである。


 最後に唐突だが訃報
 以前からその不安定性を書いてきたが、ついにメインPCが天に召された。マザーボードイカれたのだ。享年約9歳。先週、BIOSをいじって再起動をかけたら、電源は入るものの、そのままご臨終である。Bootの順番を変えただけなので、致命的な変更をしたわけではない(もしかして電池がなくなったのか?)。
 長きに渡って働いてくれた愛機だけに、愛着もひとしお。悲しいとも空しいともつかない、不思議な心情だ。
 以下にスペックを列挙。


MB/MS-6528 LE(Intel 845chipset)
CPU/Pentium4 1.6G → Pentium4 2.2G
Memory/SDRAM(PC133) 128MB → 640MB → 1GB
HDD/40GB → 160GB(40GB+120GB) → 410GB(40GB+120GB+250GB) → 450GB(80GB+120GB+250GB)
Drive/CD-RWCD-RW+DVD-RW(×4) → DVD-RW(×4)+DVD±RW(×16)
Graphic/GeForce4 MX420(64MB) → GeForce FX5200(128MB)
OS/Windows Me → Windows XP(Pro)


 今までありがとう。ゆっくり休んでくれ。
 なお新メインPCはi5でWin7。…………は、速い。ぱないのぉ!