風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(5年目その11)

『死なないという思い込みが無邪気な観察へと走らせる』


 コナン=“歩く死神”とは頻繁に耳にするけど、より正確を記すならば“歩く戦場”だよね。(挨拶)


 この間のクリリンの嫁(台風18号)に愛用の24本骨の傘を壊された(損傷軽微)のもつかの間、今度はドクターゲロ(台風20号)が接近中(現在、伊豆諸島付近)らしく、その影響で風が強い。同時に寒気が南下しているため、ここに来て、やや勢力を増す模様。しかし本土上陸はしないようなので、明日は吹き返しに気をつけるくらいだろう。
 人の死に慣れてくると、死そのものよりも、命の尊厳の類を重視するようになる傾向がある気がする(どう生きたか、や、何のために死ぬか、など)。けれど“死”に慣れていない人にとっては、そういう死生観は受け入れがたく、ときに反発心すら抱くようだ。その差は何だろう。
 殊更に昔の人を賛美する気はないけれど、やはり昔の方が“死”が身近で命について一家言ある人が多かったように思われる。それと比較すると現代人の多くは確固たる死生観を築けていないと観察できる。
 原因は、現代社会において、様々な側面から“死”を遠ざけようとする傾向が強いからではあるまいか(社会生活から宗教色か薄くなったのも一因だろうが)。平和な社会、殊にこの国ではとにかく“死”が圧倒的に少ない。あるいはそれを隠すのが非常に巧妙だ。社会的に“死”がとても遠くて希薄なのである。


 5/16に人身事故時の野次馬心理について書いたとおり、人が死ぬという現象を忌避するあまり、“死”という概念までも拒絶しているように思える反面、それに近づこうとする力もまた存在するようだ。しかしそれはあくまでも自分とは無関係の死であり、やはり遠く離れた“死”を眺めているに過ぎない。