風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その351)

『分かり易い部分ばかりが評価の基準になる浅薄さ』


 愛してる〜太陽が〜ある限りぃ〜♪ …………雲行きが怪しくなったら逃げるってことスかね?(挨拶)


 非常に非常に暖かい。快晴だったが、風が強く、広い地域に黄砂が舞い、都内は遠くの景色が黄色く靄がかっていた。
 13日の日経のサイト記事supercell feat.初音ミクが3/4に発売した『supercell』について触れていた。ネット由来の楽曲の現状を的確に分析したなかなか秀逸な記事なので、一見の価値あり。
 記事の最後に〆られている通り、ボーカロイド関連の商品は確かに売れ続けているものの、それはやはりネット上の様々な人間によって創られたキャラクターイメージが強く、商品そのものというよりは、ボーカロイド、特に“初音ミク”というアイドル性にこそ代価を払っていることは否めない。それはボーカロイドシリーズの中だけでも、その知名度に大きな差があることからも明らかだ。
 確かに初音ミク楽曲の商業的成功によって、これまでとは違うやり方で、様々な音楽クリエイターが輩出される可能性は広がった。それはとても素晴らしいことだと思う。しかし、現在のように表舞台に立つ歌い手ばかりが注目されるような商業的手法や、それを当然とする土壌が払拭されない限り、クリエイターが本当に評価されるようにはならないのではないだろうか。


 小説や漫画が売れればそれを書いた作家が注目されるし、スポーツでは活躍した選手が注目される。芸術家も同じだ。しかし歌曲における作曲家・作詞家・編曲家は歌手ほどには注目されないように思う(功績を積み重ねて業界の重鎮になった人は別)。そういえばゲームのシナリオやプログラマは原画ほど名前が出てこないし、フィギュアの原型師なんて熱心なフィギュアファン以外はまったく知りもしないだろう。両者の違いは何だろうか。