風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その315)

『それぞれの現実があり、それぞれの戦いがある。これは格差ではあるが、差別ではない』


 観れば?(挨拶)


 やや曇りで、気温も上がらず。うーむ、気候について書くことがない…。
 不況やら何やらで経済的に苦しくなり、子供の学業に支障が出ている、とか、高齢者の生活が困窮している、というようなある家庭の状況を報道し、そういう家庭に対する支援を行うようなシステム作りが求められます、という意図の報道をたまに耳にするのだが、どうにもこれが胡散臭く聞こえて仕方がない。こういった報道内容のほとんどに多大なる甘えを感じるのである。
 今日、目にしたのは、子供の大学進学費用が捻出できない、というものだった。父親を事故で亡くし、安定した月収入は遺族年金の14万円ほどで、不況で母親の就労がままならず、現在高校1年の子が大学受験するためには月6万円ほどの積み立てが必要らしい。
 まあ、確かにこの条件だけ聞くと、受験費用の捻出は難しいような印象を受ける。…が、この子供、なんと部活をやっているのである。なぜ生活に事欠くような家庭の子供が部活などやっているのだろう? しかも子供本人は大学に行きたいという意志を示している。だったら自分の受験費用くらい自分で稼ぎ出すのが当たり前だ。こんな報道をしているTV局もそうだが、こんな取材に応じている側も、自分がどんなに甘えていて、そして甘やかしているのか解らないのだろうか。今までが好況で誰もが大学受験するのが当たり前だったとしても、少なくとも現状の自分たちはそういう立場にはないのだということを自覚すべきだ。これは差別ではない。ただ、この世界には人それぞれの現実があり、それに対して戦いを挑まなくてはならない、それが生きるということだ、というだけのことである。


 以前観た、困窮しているという老夫婦の報道も酷いものだった。何しろ医療費を除いた純粋な生活費(食費・光熱費等)が風鈴製作者の家よりも多いのである。単に贅沢し過ぎなんじゃないですか?