風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その261)

『人を思うままに動かすことは難しいが、ある方向性を持たせることはそれほどでもない』


 愛すべき友人を危険人物扱いかぁ…。(挨拶)


 朝から冷たい雨が降り、気温もとても低い。最高気温は10℃に満たず。雨は結局止まなかった。
 人間をあるひとつの思想に染め上げることは、一般に洗脳と呼ばれる。人に思ったとおりの行動を確実に取らせるための条件として考えられるのは、とにかく目的以外の不確定要素を排除することだ。そうすれば自ずと対象者は指定の行動しか取らなくなる。つまりは洗脳を行ってその他一切のことを考えられなくし、周囲の環境もそれに沿ったものにすることが、最も適切な手段と言える。
 しかし洗脳を行うにはそれなりの労力を必要とするし、多様性を失った人間は能力的にランクダウンするので、もし一定以上の難度を誇る行動を取らせるのであれば、必ずしも洗脳は合理的ではない(そもそも犯罪行為だし)。
 仮に洗脳が過大な負荷をかけて個性を破壊するものだとするならば、逆に非常に緩やかな負荷をかけ続けて、当人が気付かないように誘導することをマインドコントロールという。洗脳と比べると時間がかかるものの、あたかも本人の意思で特定の行動をとっているかのように見せかけることができるため、指導者の隠匿性は高い。その代わりに洗脳ほどの精度はないのだが、ある集団に対してこれを行い、その中に直接的行動に出るような要素を孕んだ個人をいくらか混ぜると、俄然、その集団の危険性が増す。簡単に例えると、ある工場を排除したい場合、環境をとても重視する集団に、その工場が製造しているものを忌み嫌う小集団と、攻撃的行動を容認するような小集団を加えると、その集団が工場を攻撃する可能性が上がる、といったようなことだ。


 つまり串中弔士がしたこととはそういうことだ。もっとも彼は生徒たちを自覚的に交差させたわけではないのだが、しかし同じくカウンセリングを受けた生徒同士ということで、交わる可能性が他よりは高いと自覚していただろう。そういう、何かをさせる、何かを起こす“可能性”を振り撒いている男なのだ。つまりどこかのアンバーと一緒か。