風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その244)

『誰かに用意された機会を利用するしかないと考える不可解』


 えっ、マジで!?(挨拶@ブシドー「勝手にそう呼ぶ。迷惑千万だな」


 爽やかに晴れ渡り、小春日和。日向ぼっこでもしながらウトウトするには最適の日だったが、残念ながら法事。15時くらいからは早々に涼しくなった。
 というわけで法事だった。法事そのものに関しては一言のみ。住職、命日間違えないで下さい(1回目は正しく言っていたのに、何故か2回目で間違えた)。
 その後、さも当然と言わんかのように酒席となったのだが、ここぞとばかりに親戚の長老方が喋ること喋ること。そんなに話したいことや聞きたいことがあるなら、普段から連絡すれば良いのに、どういうわけなのかそういうことはけしてしようとはしない。まるで冠婚葬祭のときに備えて話題を溜め込んでいるかのようである。しかし一方で、長老方と比べるといくらか若い層はそれほど話に花を咲かせようとはしていないように窺えた。当たり障りのない世間話をするくらいで、踏み込んだことは口にしないのだ。
 こうしたイベントを面倒に感じるのは誰でも一度はあると思う。これは近代以降、科学が発達した社会においては全世代の人間が感じたことがあるだろう。しかし、それでもなかなか止めようとしないのにはいくつか理由がある。純粋にこうしたイベントが親族の繋がりを維持すると考えている。確かに面倒だが、自分がそれを終焉させるのはもっと面倒だ。何らかの利益を得る機会に転化している、等々…。


 しかし一族(氏族)意識もすでに尽き果てて久しい。親族だからといってベッタリと寄り添うような時代ではない。墓という制度は無くならないだろうが、しかし今後数十年で家単位のものは急速に少なくなるだろう。従って定期的な法要も一族単位でやることは減少することになる。