風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その243)

『慣れるとは必ずしも鈍感になるということではない』


 景品丸ごと撤去されてたー。(挨拶@あの後、誰かに毟られたのか、それとも風鈴制作者が警戒されたのか)


 今日は晴天。さらに気温は上がって暖かい。夕方、南南西にとても明るい星が見えたが、時間と方角的に金星でもシリウスでもない。しかし他にあれほどに明るい星は思い当たらない。人工衛星だったかもしれない。
 物語の内容に対する欲求は、多くの作品に触れるほどに肥大化するものだ。例えば涙を流すような内容であれば、初めの内は感情移入したキャラクタが死んでしまうだけでも泣けてしまうかもしれない。しかしそういった物語を観続けていけば、ただ物語の結末として死んでしまうだけでは特に何の感慨も浮かばなくなるだろう。人はある刺激に慣れると、それよりもスケールの大きなものを求めるようになる。それに照らして論ずるならば、単なるキャラクタの生死に慣れた人は、作品の内容にさらなる規模の大きさを求めるのだろう。それは命よりも大事なモノに対するキャラクタの人生スタイルであるとか、あるいは人間論のようなものに行き着くのではあるまいか。


 逆説的に言うと、単にキャラクタが死んだから泣けるというような人は、現実であまり人の死に触れていないとは考えられないだろうか。もちろん架空の物語と現実を同列には扱えないが、しかし人の生き死に対し慣れて達観している人間が架空のキャラクタの単純な死に本気で涙を流すとは考えづらい。