風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その203)

『同種がありふれれば、個は視認できなくなる』


 マリナ=イスマイールがヒロインっぽい、だと…っ。(挨拶@だが29歳)


 清々しく晴れ渡り、暖かい。日中は半袖1枚でも平気だった。
 最近は駅などで見られる看板広告も実際に加工・印刷したものではなく、液晶(多分)画面に投影するものが見られるようになってきた。やっていることは陰影をつけたパネルを後ろから蛍光灯で照らしているという部分でまったく同じだが、内容が変わるごとにパネルそのものを生産する必要がない分、いくらか液晶パネルの方が環境に優しいと評価できる。もとより、そういう評価を見込んでそういうやり方を採用しているのだろう。
 ただ、たまに思うのだが、街中に溢れている広告は正直、目障りだ。景観を損なっていることは間違いないし、画像や映像だけではなく、音声まで再生している場合もある。元々の喧騒をあり、相当にやかましいと思うのだが、しかし騒音条例がああいったものに適用されたという話は聞かない。ほとんどの人は外でそんな宣伝を見たいとは望んではいないと考えるが、いったいどういった人間の意図でああいうものが維持されているのだろう。清廉さや清浄さを好む社会になるにつれて、どんどん支持されなくなるばかりか、そろそろ宣伝方式としては逆効果になりかねないのではあるまいか。


 海外の街並みを全て把握しているわけではないが、この国ほどに街に看板広告(映像含む)が入り乱れている国はないのではないかと思う。個人的に8割くらいは必要のない(=意味を成していない)ものだと思う。もう看板が入り乱れすぎてマイナな内容なんて認識すらできないからだ。