風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その113)

『陽中の陰、陰中の陽。多面性の根本だ』


 もっと思っていたい。(挨拶)


 今日は暑い。快晴ぶりが半端ない。各地で猛暑日を記録し、東京も終日暑かった。
 以下はあくまでも私見だし、一般性の証明などまるでおぼつかない推論である。基本的にこの日記の大半はそういうものなのだが、一応、再度断っておく。
 一般的な見地から大きく離れた事件、例えば衝動的な殺人や、不合理極まる犯罪行為が起こるとマスコミはこぞってその不可解さをクローズアップし、すぐにその異常性、あるいは社会への不適合性をアピールする。だから多くの人はそういった犯罪を行う人間、ないしはその行為を、さも自分とは縁のない世界のものと認識し、遠ざけようとする。
 そうすることによって自分の心理的安定を図ろうとしているのは理解できるが、しかしどんなに異常に見える行為も、その多くは普段は善良な人間が行うものだ。個人的にはむしろ善良であればあるほどに、道を踏み外したときの外れ方は大きくなると考えている。どちらかというと、普段から自覚的に悪意を抱いている人間は極端な行動には出ない。それは悪人の方が常に“悪”という社会的異常性を認識しているからであり、同時に世間的良識を知っているがために、悪行がどれほど自分に不利益か理解しているからである。逆に自分が善であると信じている人間は、一時的にしろ、自身の行為を正当化しやすい傾向にある。結果として突発的な犯罪に走るのだ。


 本来、人間は善悪の二面性(正確には多面性だが)を持ち、様々な事態に対応することができる。しかし極端な善性の植え付けはそこに不具合を生じるのである。何を言っているのか解らない人は、もう少し人間というものを観察した方が良い。