風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その109)

『他の誰も持っておらず、しかも自然と表出こと。それが“らしさ”というものでは?』


 コレのカブトムシとオオクワガタが最近のお気に入り。(挨拶)


 午前中は快晴で急速に暑くなったが、13時過ぎから急速に雲が広がり、一時的に雷豪雨に。その時点で上野にいたが、まるでスコール。しかし涼しくなるどころか、熱せられた地面の熱が雨を蒸気と化し、瞬間的にとんでもない暑さと湿度に。以後、夕方まで雨が降ったり止んだり、雷が鳴ったり鳴らなかったり。
 猟奇殺人や肉親への殺害事件がおこると、たまに目にするのが人間らしさに関する論議だ。主に他者への思いやりだとか家族愛をその象徴のように語るキャスターやコメンテイターが多いのだが、どうも建前を掲げているだけか、あるいは勢いで話しているだけで、当然のように論理的ではなく、議論の確信を突くものでもなく、しかも誰にとっても何の得にもならない話ばかりしている。
 らしさというのは、その個人が持つ、他の多くが持っていない、あるいは持ち得ない特性のことだろう。ならば人間という大きな括りでらしさを語るなら、それは動植物には無い、人間だけが持つ特性のことだ。そして肉体を有する生物同士で比較する以上、それはやはり肉体ではなく、精神に求めるべきである。
 精神ないしは心と呼べるようなものを有する動物は人間以外にも多く、仲間を思いやるような行為や血縁で集団を作ってそれを慈しみ守ろうとする生物はそれなりに存在する。行為としての例を挙げるならば、自分以外の仔を育てることもあるし、埋葬を行う動物だっている。そういう人間が美徳とするようなことは大体、他の動物も持っているものなのである(それほど多くはないが)。
 ならば人間と他の動物の精神性で最も異なる点は何かといえば、それは無駄を行うことだ。それも時に取り返しがつかないような無駄まで行ったりする。他の動物は停滞と呼べるような行為をすることこそあれ、マイナスになるようなことはしない。徹底して合理的なのである。


 始めは複雑な精神を有してしまったが故に、その安寧のためだけに行う生命活動の維持とはまったく無関係な行為だったのだと思う。そこに好奇心ゆえの無意味とも思える行為が合わさり、社会の肥大化と富裕化に伴って肉体とも精神とも乖離した行動へと走ったのではあるまいか。まだ研究の余地はあるが。