風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その69)

『建設的であるということは、それだけで意味がある』


 ああ、今日って池田小事件が起こった日なのか。(挨拶)


 曇り。気温は低く押さえられ快適。しかし東京駅を通りかかったものの、さほど人は多くなかったように感じられた。
 15:30くらいに電車内から外を眺めていたら、秋葉原中央通りには救急車や警察車両が多く停まり、大量の人だかりができていた。あー何か起こったな、と思い、帰宅後にネットで調べたら案の定だった。事件のことはいくらでも報道されているし、個人的にも記憶にインプットされたので、ここではイチイチ記載しない。
 ただやはりと言うべきか、相変わらずマスコミは犯人の私生活や経歴ばかりを暴きたて、そこから推察される(多くは推察でもなんでもない妄想だけど)人格を否定することに終始している(※断じて犯人を弁護しているわけではない)。おそらく、同じような人間は犯罪予備軍ですから気をつけましょう、という意図なのだろうが、やはりそれは差別主義的だし、そんなことよりは身勝手な犯罪が如何に卑劣で卑怯で矮小で罪の重いものかを強調した方が社会のためだろう。少なくとも犯罪の手法を事細かに報道するよりは社会にとって建設的だ。


 誤解を恐れずに言うと、凶行に及んだ犯人のことはどうとも思わない。怒りも覚えない。何故ならまったく関係のない人間だからだ。犯行時、その場にいたのならともかく、見知った場所で犯罪が行われたところで無関係のことは、やはりどこまでも無関係だ。報道とはそういうスタンスで観るくらいでちょうどよい(もちろん犯人は許されるべきではないと考えているが)。