風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その65)

『人の本質は意思。究極的に言って肉体が有機か無機かなど問題ではない』


 ワタシハヒトヲコロシマシタ。(挨拶)


 晴れと曇りで6:4くらい。気温も上がり、日中は半袖でもいいくらいだった。
 仕事後、お芝居を観に行った。演目は手塚治虫生誕80周年記念『銀と赤のきおく』(原作:手塚治虫『ダリとの再会』『火の鳥 復活編』)。
 まあほぼ原作をなぞったストーリーでさほど目新しいこともない作品。あえて言うならロビタを人間が演じるとそれだけでコメディになるということ。レオナ + チヒロ → ロビタの過程における、ナゼコンナスガタニ、はギャグでしかなかった(原作ではシリアスなシーンなのだが)。
 原作では、“人間”とは何だ、というコンセプトにおいて外見や身体の構成物ばかりを重視し、あくまでもレオナを人間とし、ロビタやチヒロをロボットであるとする偏狭な人間ばかりが登場し、ことあるごとにレオナやロビタを苦しめる(ストーリー上のやむを得ない処置かもしれない)。『銀と赤のきおく』でもその部分は変わらないのだが、せっかくiPS細胞やインテリジェンスアーキテクチャが登場した現代に上演するのだから、もう少し踏み込んだ内容にすればよかったのではないかと、個人的には思っている(改変したらしたで手塚氏のファンは怒り出しそうだけど)。


 人間の本質は意思であって肉体ではない。死体を人間だと言えるだろうか。 自らは動作せず、遠距離から機械のボディを動かしている場合、どちらが“人間”なのか。“人間”を問うとはそういうことだろう。