風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その54)

『理屈そのものを拒絶するということはコミュニケーションを拒絶することに等しい』


 ずっと俺のターン!(挨拶)


 曇りのち雨。予報では雨だったが、夕方になっても天気はしばらく保ちそうだったので傘を持たずにいたら、急速に降り始めて濡れネズミ。以後も深夜まで降り続いた。気温は湿度が高めなものの、平年並み。
 理屈を言うな、と口にしては、とにかく自分の言うことに従わせようという人間はいまだに多い。最近はそういう横暴には従わず、(良くも悪くも)自己判断で動く人間が増えたのでそういうやり方は通じなくなってきたが、かつてはそのように強制することで全体を特定の方向に動かすやり方が主流だったからだ。
 もちろんそういうやり方で集団をより良い方へと動かすには、主導者の能力が高く、その見通しが確かなものである必要がある。それと同時に能力が高いことを示さなければ誰からも尊敬の念や信頼は得られず、けして人はついてこない。だからこそ人の上に立つ人間はそれ相応の能力を必要とされるのだ。
 そういう上下関係の中で理屈を抜きにして、個人の内側にしか存在しない経験や直感を頼りに、文言化せずに人を思い通りに動かすことは難しい。昔のように、上司や年長者の言うことには従うものだ、という常識が浸透しているならばともかく、年功序列が崩れ、個人の意思が何よりも尊重される現代においては、ただ従えと言われても心情的に反発を抱き、効率が落ちるばかりだ。納得できるかどうかは相当に人間の能力に影響を与える。


 だからこそ理屈というものは必要であり、またそれを受ける側にも相応の理をもって是非を判断しなくてはならないし、できなくてはならない。そこには合理的な判断のみが求められるべきであり、個人が気分良く行動できるかどうかは二の次だ。