風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その42)

『個人の自由は、即ち全体の鈍化である』


 最近はニコ動で『演奏してみた』に嵌ってる。(挨拶)


 全般的に曇天。ほんの少しだけ晴れ間も見えたが、気温はとてもフラット。服はジャケットを含め3枚が必須。
 現在、先進国の多くでは個人の権利が重視され、その思想と信仰と行動の自由が認められている。それはそうしていてもやっていけるという裕福さの証しであり、とても素晴らしいことだ。しかし一方ではそういう自由さが全体としての鈍さを助長していることは否めない。例えば科学的調査などによりあることをすれば地球環境が確実に改善するとしても、必ずしも全体がそれに従うとは限らない。それは地球環境という全体としての利益が個人の利益に反する場合がある(というかそれ以外ありえない)からだ。個人の財を守る権利が存在する以上、それぞれの行動はそれぞれの意思に任せるしかない。それでも事態が切迫してくれば周囲の圧力などを受けて最終的には誰もがそれに従い環境は改善するだろうが、やはりそれまでにはとても無駄な時間を費やしてしまうに違いない。個人が自由であるということはそういうことだ。


 逆説的に言うと、個人が自由であるためには全体としてある程度の裕福さが必要だ。それはつまり個人の所有する財もまた大きくなるということであり、持ってしまったからにはそれを守るのが自然な行動だ。守るという行為はつまり停止、あるいは停滞の類である。それが積み重なれば、当然、全体は鈍化する。