風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その16)

『物を残そうとする文化と作り直す文化。どちらが人間的と言えるか』


 ふむふむなるほど…。――――つまりどういうこと?(挨拶@時と止める一言2)


 本日も快晴とまでは言えないが晴れ。そろそろ暑いと断言せざるを得ないと言わざるを得ない状況ではなかろうと思われるような気もしないでもない陽気かもしれない。
 伊勢神宮式年遷宮を知っているだろうか。あの神社はいくつかの理由から本殿を20年ごとにすぐ隣の敷地に、まったく同じ建築法でまったく同じ様式・形に作り直しているのである。それを式年遷宮というのだが、これは主に建築物としての耐久性に大きく関わっているようで、おそらくその神格の高さから綻びなどあってはならないという配慮があることは間違いない。
 だったらもっと新しい建築法を用いて、長持ちするように造れば良いではないかという考えが浮かびそうなものだが、しかしそういう発想は元来のこの国の文化にはそぐわないようだ。知っての通り、日本の古来からの建築物のほとんどは木や紙といった耐久性の低いものがほとんどである。この傾向は美術品にも見られ、石像や古代に描かれた壁画などを除けば、大抵、その素材は紙か木だ。加工しやすいということを考慮に入れたとしても、その使用頻度は他の群を抜いている。
 推測ではあるが、元々、物体として形をなしているものを未来永劫残そうとするような精神性ではないのだと思われる。それはこの国の自然条件があまりに変化に富み過ぎていて、それら全てに対応できるようなものではなかったことに起因する。何しろ、台風が毎年のように訪れ、地震が頻発し、たまに火山が噴火し、時々は津波まで発生し、夏は洪水に見舞われ、冬は大雪に悩まされるような国土なのだ。そんな中で永久に形あるものを残そうなどとは考えないのが自然である。どちらかというと建物が紙と木でできているから壊れやすいのではなく、天変地異に襲われ、壊れた家の瓦礫を片付けるのを楽にするために紙と木を採用したのではなかろうか。


 この点は欧米の人々と日本人が決定的に異なる部分のひとつだ。もちろん現代の建築技術により耐久性は向上したし、欧米に合わせて耐用年数の上昇が検討されている影響で失われていく文化なのかもしれないが、それでも物体をは形を成した時点で永遠ではない。永遠であることが可能なのはメンタル的なモノだけだ。それすらも時が過ぎれば欠片のようなものしか残らないが、それでも消えてなくなりはしないだろう。多分。