風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その15)

『多くのことは理解や共感を得るためにやっているわけではない』


 ――――んで、アンタ誰だっけ?(挨拶@時を止める一言)


 今日は朝から快晴で気温も高く、20℃オーバー。やや暑い、と表現するのもやぶさかではない。
 政治家の発言でよく耳にするのが、国民の理解を得られるかどうか、というようなものだ。主に増税などの国民の負担が増えるような法案議論時に聞く言葉だが、そもそも国会で行われている議論は国民の理解を得るためにやっているのではないはずだ。
 新たに立案される法律とはこの国の今後のためにプラスとなるからこそ提出され、議論されているはずである。その内容と期待される結果について国民一人一人が理解、納得するかどうかはまったく別の問題であって、最終的に国民の大多数に不利益しかもたらさないようなものだったという結果になれば、それは選挙の結果に反映されるだけだ。


 今日も民主党の党首氏が与党のやり方が、国民の理解を得られるとは思えない、と発言していた。単に“理解”という言葉を誤用しているような気もするが、そのままの意味で受け取ると、まるで自民党を気遣っているようにも聞こえる。もはやこの言葉は定型句となっているのかもしれない。――――馬鹿のひとつ覚えって言っていい?