風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その357+365+347)

『違う時代に生きる人間を許容できれば、これほど自由で平和なことはない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ベストチョイスですっ!(挨拶)


 朝から快晴で、地元は交通量も少なく実に静か。夢遊状態で散歩でもしたい気分だったが、しかし用事があったのでそうもいかず。夕方には雲が広がり、やや強めの風が吹き始めた。
 結婚式に出席するたびに思うのだが、宗教色の薄い(あるいはまったく無い)この国の一般的な結婚式には伝統儀礼的な意味合いはほぼ無いと言ってよいだろう。現在、結婚式の様式はキリスト教式が6割強で、神前式と人前式が共に16%ほどらしい。しかしキリスト教式とはいってもほとんど場合、新郎新婦は信徒ではないし、本心から神に対して愛の宣誓をしているわけではないだろう。神前式は一見、古くからの神道の伝統儀式のように思えるが、実際には大正天皇の御成婚の時に始めて行われ、その後、それに憧れた人々が同様の式を望んだから確立されたものであって、厳密な意味で宗教的とは言えない。人前式は両親・親族・友人などに対して誓いを立てるもので、しかも明確な決まりごとがあるわけではないので、当然、伝統的なものではない。
 つまりは必ずしも行う必要のないものを、実際にはほとんどの人間が行っているのである。宗教的な縛りも民族風習的な縛りも存在しないのにそういう行事を行うのは、やはり“皆がやっているから”という集団主義的な心理が大きいからだろう。まだまだこの国の人間は“群れ”であることを望む傾向にあると判断できる。


 どちらかというと、結婚式や披露宴の後に行われる2次会の方がそれぞれの個性が反映されているだろう。最近、『オメガトライブ』で似たようなことを言っていたが、結婚式はほぼ100%親が出席するので、どうしてもそういう人々の心情に配慮した様式になる。なるほど、“個”であることの最後の関門はやはり親か(別に“個”であるために親を排せ、と言っているのではない)。