風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その346+365+347)

『秀才から秀才が生まれるのではない。秀才から秀才が育つのである』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 なんでヒッキーの更正なんてしてんスか?(挨拶@金剛番長


 昨晩の暖かさが持続し、朝はシャツ一枚で起床。しかし昼は晴れてはいたものの気温はあまり上がらず、結局、平年並み程度になった。
 今まで風鈴製作者が出会った人間で、大学教授の子供が2人ほどいる(風鈴製作者が知らないだけで、もっといたかもしれないが)。いずれも非常に優秀な頭脳の持ち主で、会話のレスポンスがとても早く、回答も的を射ており、思考速度が早く、その展開範囲も広いことが窺える。
 だがしかし、けして親が学者であったからという遺伝的理由で優れていたのではないと思われる。2人の内の1人は小学校の同級生だったが、低学年の頃はそれほど飛び抜けてはいなかったが、高学年の頃には確実に他とは一線を画していた。一方、もう1人は21才頃からの付き合いだが、最近、ややその能力を減じてきているように思われる。
 あくまでも推測だが、周囲の環境が人を秀才へと押し上げるのだと考える。前者は祖父・父・母が大学教授であり、後者は父が大学教授で母親が高校教師である。教育熱心だ、ということではなく(それもなくはないだろうが)、秀才になるような生活環境である、という意味である。そういった環境にいたからこそ、前者は高レベルの思考能力を獲得したのではないかと思う。逆に後者は、現在は実家から離れ、その思考能力に相応しくない環境下にいる(と風鈴製作者は判断している)。その結果として、徐々に能力を引き下げられているのではあるまいか。


 何が言いたいのかといえば、秀才とは作り出せる、ということだ。ただ、それを作り出す環境を一般的に用意できないというだけのことだと思う。何故なら、やはりそれは親の能力も大きく関わってくるものであろうからである。