風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その321+365+347)

『醜悪さは自覚してこそ隠すことができる』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 さようなら、HD-DVD。(挨拶@東芝、降伏


 今日も快晴。今まで日の出時刻の関係から見えなかった朝日が、ビルの陰から顔を出すように。…眩しくて前が見えません。
 人間は誰しも醜悪な側面を持つ。それを否定する人間は自分からも他人からも目を背けているだけである。さりとてそういった醜悪さが排除すべきものかといえばそんなことはない。醜悪さを知り、身に付けることは一種の防衛行動だからだ。重要なのはそれを上回る理性を持って、覆い隠すことであろう。
 しかし自身のそれに気付かない人間、あるいはそれを未だ知らない人間はそれができない。前者は無自覚な悪人であり、後者はいわゆる“幼稚”である。肉体的にすでに大人の人間がこのようであると非常に性質の悪いことになる。彼らは誰かが忠告しても、自身を善人であると信じるが故に、存在を知らないが故に、それを理解できないからである。


 己や身の程を知る、とは社会的節度を守り、平和であるために必要なものだ。そうやって距離を保つことが大人の条件のひとつなのだが、面白いことにそれを“仲が悪い証拠”的解釈をする人もいる。そしてそういう人間に限って、たいてい理屈が存在しない。もはや“考え方の違い”とかそういう問題ではなく、ただ拒絶するだけの幼稚さの発露だと思う。