風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その300+365+347)

『一次創作と二次創作はまったく次元の異なる作業であることに疑う余地はない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 あんこが重いとかどうとかよりも、生地が濡れたら沈むよね。(挨拶@たいやきくん)


 昨日と同じく風が強く、気温はまた少し下降。少し前に、今日は今シーズン一、二を争う寒さだろう、と書いたが、なんのことはない、その日はベスト10にも入らなそうだ。
 ここ数年、デジタル放送やネット放送の普及で、放映されるアニメ作品の本数は毎週50本ほどをキープしている。一般的に見るとさぞ隆盛しているように見えるのかもしれないが(それ以前に50本もやっていることを知らないか)、一概にそうとは言えない。
 例を挙げると、昔と比べるとオリジナル作品の割合は格段に減ったように思う。大半が漫画やゲーム、小説、あるいはオモチャなどを原作とした二次創作作品なのである。その背景には、原作ファンの何割かは確実に流れてくる、という思惑があるからだろう。確かにそういう傾向にはあるので、商売的に間違ってはいない。
 つまりは動画化を熱望する原作ファンが多いということなのだが、しかし二次創作作品が増えたのは必ずしもそういった声に応えたからではないだろう。
 オリジナルアニメには作品の登場キャラクターや世界観、イメージなどを考える原案者がいるわけだが、それらを一から考え、打ち合わせをして制作者に伝えるのは多大な時間と労力を必要とすることは言うまでもない。しかし二次創作であれば、すでに原作作品は存在し、原作者から直接伝えられるだけではなく、その作品を見ればイメージはより伝わりやすくなる。これは大きなアドバンテージである。制作時間や制作費の限られている現在のアニメ業界からしてみれば、二次創作作品に流れるのは当然かもしれない。


 別な側面から見ると、娯楽作品が様々な媒体から発表されるようになり、ネットの普及もありマイナージャンルからも人気作品が登場したことが大きいと言える。そういった、“支持はあるがマイナーな作品”というのは版権が安いのである。使い潰すには都合が良いのだろう。