風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その297+365+347)

『特定個人のために何かをすることに一般的価値はない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ティラクル・ラミカル・レルラミルー♪(挨拶)


 晴れてはいたが、全般に薄っすらと雲が霞がかっていた。気温は少し上がって、多分、平年並みくらいだったと思う。
 一般に誰かのために何かをすることは美徳とされ、尊いものだとされている。風鈴製作者としても、尊いかどうかはともかく、相応に好ましいことだと思う。しかしこれが特定の人間のためとなると、話が違う。それは単に自分にとって何らかの実質的な利益があるからこその行動であり、美徳とするには抵抗がある。
 この場合の、誰か、というのは不特定であるべきであろう。いわゆる“どこかの誰か”、“いつかの誰か”というやつだ。歴史上、大局的偉業を成した人物の行動理念はこういったものであったと思う。元々、自分に利益が還ってくることを望んだものではなかったはずだ。しかしその行為によって当時の社会には大きな変革が起き、時に平和が訪れ、時に栄え、また、時には崩壊の道を辿ったこともあっただろう。どんな結果になろうと、それはけして無価値ではない。何かを起こした、ということは、それだけで無価値ではない。たとえそれが社会的苦境を生み出したとしてもだ。


 もちろん身近のものを優先して大事にすることを放棄してはならないが、外側を観測し、先を見通そうとする意志はなくてはならない。そういう意志が未来を引き寄せ、何かを創り、誰か(何か)の助けとなる。そして、そうであるように行動する、という信念が美徳となり、誇りとなるのではないか。