風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その288+365+347)

『有名人のスキャンダルに楽しみを見出すことは、子供に自分の夢を投影する行為に近い』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 1000回のようです。(挨拶)


 寒気は居座り続け、朝からとても寒い。街頭で見た7時頃の気温は3℃。空気そのものが大きく違うのが体感できる。例えるならゲレンデの空気。天気は晴れたが最高気温は二桁に満たず。
 昔から政治家や芸能人を始めとする有名人を追い掛け回し、私生活を暴きたてて、してやったり、みたいな記事を書く週刊誌はなくならないし、それを見て楽しいと感じる人も変わらず多い。
 別にその存在を否定するわけではない。需要と供給が成り立っているというだけのことだから、読みたい人は読めばいい。風鈴製作者は読まないだけだ。ただ、見ている限り、そういう記事を楽しんでいる人は軒並み暇なようだ。何か趣味に没頭しているようなことはまず無いし、遊び歩いているようにも見えない。思うに、自分自身に価値を見出すことができないのだろう。だから時間があっても遊ぶことすらしない。
 これは子供に多大な投資をして、何らかの強い期待をかける親の姿に似ている。そういう親の中には、子供に世話を焼いて何が悪い、それが生き甲斐なんだ、と言う人もいるが、子にああして欲しい、こうなって欲しい、という感情を向けた時点で、それは世話ではなく誘導だろう。自分という個に価値を見出す人はそういう感情は持たない。子供は子供、自分は自分である。当たり前だが。


 そうやって他人の行為、あるいはその結果に何らかの価値や意義を見出そうとするということは、確かに一時的には心を潤すかもしれない。しかしその価値はどこまでも他人のものだ。満たされることはない。スポーツ選手などの応援に情熱を燃やす人も同じようなものだろう。