風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その279+365+347)

『才能もあり、努力もして、結果も出す人間を優遇するのが差別だとでも?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 何が凄いって、制服のデザインじゃない?(挨拶@うろおぼえウロボロス!)


 朝の冷え込みは緩く、日中は晴れてとても暖かくなった。昨日よりは2〜3℃は高いと思われる。
 資本主義社会において、個人への評価というものは基本的に支払われる金銭で示される。このことに異を唱える人は多いが、しかし金銭ほど分かりやすく適正な評価もなかなか無い(このことは以前にも書いた)。地位や名誉といった評価基準もあるが、例えばサラリーマンにとって課長や部長といった程度の地位がそれほど実生活に意味を為すであろうか。基本的には仕事の内容(と責任の重さ)が変わる程度で、世間一般に対してそれほどの影響力は無い。そこまでの影響を及ぼすには、最低でも会社の経営方針そのものを動かせる地位に上らなくてはならないだろう。
 しかしこの国はそういう個人に対する金銭評価というものを軽視しているように思う。これも以前に書いたことだが、その人にしかできない、その人でなければならない仕事を行っている人と、誰でもできるような仕事しかしていない人の金銭評価は、その仕事が生み出している利潤に比べて、あまりに差が少ない。例えば年間10億円の利潤を生み出している人間と、年間1億円の利潤を生んでいる人間の給与を比較した時に、その差が2倍程度では前者は到底納得しかねるはずだが、こういったことがまかり通っているのが実情だ。(同時に会社にほとんど利益をもたらさない、地位だけは高い人間に高給与が支払われ続けるのも異常と言えば異常だ)


 金が全てだとは思っていない。しかし、こういった現実のせいで本当に優秀な人間はどんどん海外へ逃げる。そして戻ってこない。これも分かりやすいように例を挙げると、野球選手がその代表例だ。メジャーリーグで大きな成功を収めたプレーヤーは多分2度と日本の野球リーグには戻ってこないだろう。戻ってきたとしても、それは力が大きく衰えた後に違いない。(まあメジャーリーグは営業規模がまったく違うのだから一概には比較できないが)