風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その274+365+347)

『夢は見出すものである。それは自身からであろうと、他者からであろうと、その価値に上下はない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 型月漬け。(挨拶)


 今日はいい天気……とか思っていたら、15時ごろにいきなり夕立もどき。だがそれ以外は概ね晴れて暖かだった。
 取りあえず『Fate/Zero』を読了。――――やべえ、イスカンダルが…、イスカンダルがっ!!!!(落ち着け)
 なんというかZeroを総括すると、読めば読むほど征服王の器の大きさと英雄王の強大さばかりが際立ち、どこかの騎士王の矮小さが浮き彫りになった作品だったと思う。まったく結構なことだ。(風鈴製作者はあの騎士王が大嫌いである)
 統治者が民を導く役目を担うのは当然のことで、清廉潔白さと合理性だけを背景に先に進んだところで、民衆はついては来ない。人は善性と同時に悪性を持ち合わせ、無駄なことをするものだからだ。こういった傾向は過去よりも、むしろ現代のように個人の財が大きくなり、同時に権利が与えられた世界の方が強い。だから現代社会における統治者には、民衆の心理を察し、それに沿ったシステムや娯楽・目標を与える能力が非常に必要だ。そうやってある種の誘導を行うのが統治者の役割であろう。これは今も昔も変わらない。


 それはそれとして、劇場版『空の境界 第2章【殺人考察(前)】』を早朝に観に行ってきた。少し話のテンポがおかしいな、という部分もあったが、そこそこ上手くまとめられていた。しかし式の殺人の定義の件は、初見では理解しづらいと思われる。“式”と“織”という同じ発音が連呼されるので、混同しやすいのだ。このあたりは映像作品ならではの弱点であろう。あと理緒ちーが目立ちすぎ。伏線どころか、完全に顔見せ状態。これも映像化における弱点。