風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その269+365+347)

『夢も現実も、本物も偽者も、全てはそれについて考えたときのみ生まれる幻想』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 総務省の関連HPで、D端子=デジタル端子、って記述されてるんですってよ、奥さん。(挨拶@アナログ端子です)


 朝から少し曇っていたが、昼間は完全に曇りとなった。洗濯物が生乾きナリよ、キテレツ。
 なぜ小説(物語)を読むのか、という問いかけを見かけた。よくある回答で、自分のもの以外の他人の人生を擬似体験できるから、というのがあるが、個人的にはそういう理由で本を読んだことはない。
 確かに読書をすれば擬似的に味わえる物はある。しかしそれはあくまでも“出来事”や“状況”であり、どこまでいっても“人生”ではない。人生とは経験の連続の果てに残る残響のようなものだ。ゆえにそれは主体性によって大きく左右される。だから主体性をもトレースしない限り、他人の人生とは味わえない。そして、物語とはほとんどの場合、登場人物の経験の一端でしかない。そこから感じ取り、得られる物はあくまでも読者の感性に因るものだ。


 そこには仮想も現実もなく、本物も偽者も無い。紛れもなく当人が感じ、知り得たものであるという事実があるだけで、あらゆる価値基準は意味を為さないし、そもそも本来はそんなもの自体、存在しない。