風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その259+365+347)

『肉体を駆使すれば心がこもる、という発想はむしろ人格を無視している』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 COP13、最後までエゴのぶつかり合い。まだまだだね。(挨拶)


 朝は少し寒かったが、日中は比較的暖かくなった。かといって、街中の人いきれが暑苦しいほどではないので、快適な買い物日和。ROM版カタログ買ってきた。
 そろそろ年賀状の受付が始まる時期だ。風鈴製作者はまったく出さないので関係ないのだが、最近、母親が知り合いの郵便局職員に、年賀状を買わないか、と言われているとのこと。どうやら民営化に伴ってノルマを課せられたようだ。まあ年賀状も年々実売数は減少しているだろうから、当然といえば当然だ。むしろ今さらというような気もする。
 年賀状を出すことに固執する人は、どうも実際に手を使って書くことが心を込めることだと思っているようだ。つまり手間暇をかけることに価値があるということだろう。なるほど、確かにそういう側面はあるかもしれない。しかしそれならばオリジナルの絵柄を思案し、PC上で作製してメールで送るのも同じことである。別に優劣をつけるつもりはないが、要は個人の感性を表すことが大事だと思う。


 例外的に“?”と思うのは、コンビニなどでテンプレート的な図柄を印刷して、宛名すら印刷の年賀状である。あればかりは、取りあえず出せばいい、という考えがあからさまで、不快とまでは言わないが、少し呆れる。そんなものでも、送ってもこないよりは良い、と考えている形式重視の受け取り手(主に送り手にとって目上の立場にある人物)が存在することが原因だろうけど…。