風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その252+365+347)

『何事にも拍子というものがあり、それを外す手段にも拍子がある。そしてそれを崩す拍子も』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 クリリンのことか…。クリリンのことかぁーッ!!(挨拶)


 おおむね晴れ。風もなく、とても暖かい。SDを漁りに行くには良い日。SDはすっかり1GBあたり\1,000を割り込んでいる。少し供給過多ではなかろうか。
 あらゆる事象には拍子というものがある。それは分野によって“リズム”、“テンポ”、あるいは“波”などといろいろに称されるが、基本的に同一のものだ。何かを制そうとする場合、まず障害となるものの拍子を崩すことが肝要である。
 当然、拍子を崩すための拍子というものもあるわけで、それと同時に相手に意思がある場合、拍子を崩す拍子を制そうとすることになる。この様子を一般に“読み合い”という。


 どんなものにも拍子というものは存在し、そこから外れることはない。仮に無拍子というものがあるとすれば、それは瞬時に行いそのものが変化し続ける中にのみ存在するだろう。