風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その249+365+347)

『いつでも手に入るものを、わざわざ物体として留めておく風潮は、せいぜいあと5、60年といったところだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 もうすでに描いたよ。仕事の遅いヤツといっしょにするな。(挨拶@ドリッピング画法!コーヒーで!)


 昨日の予測通り、放射しまくりでとても寒い朝。とはいえ、布団から抜け出せません、というような寒さではない。この程度で弱音を吐いていたら、とても冬山登山や極圏旅行など行けまい。…もちろんそんな予定はないが。
 今年のベストセラー文芸部門のベスト3をケータイ小説が独占したらしい。それ自体には個人的に全然興味のないことなのでリンクを貼ったりもしないが、どうもケータイ小説をムキになって批判したがる人もそこそこいるらしい。
 ネット上にアップされた小説の中で、主に携帯電話の小さな画面でもストレスなく読めるように、一文を短めに設定したものをケータイ小説と呼ぶのだと個人的には解釈しているが、主にこれを“小説”と呼ぶことに抵抗を覚える人が批判しているようだ。聞きかじった限りで分析すると、構成が陳腐だとか、現実から乖離したデタラメ話といった物語の内容に対するものと、語彙が貧困だ、状況描写が稚拙でまったく伝わってこない、など文章表現に対するものへの2つに批判が分かれるようだ。
 思うに、前者の問題として、つまらない小説など一般書籍にもいくらでも存在しているから、いまさらわざわざ非難するようなことでもないし、またなぜ小説が現実的でないといけないのだろうか。現実を舞台にしているくせに、登場人物がとてもありえないような行動を取る小説はいくらでもあるので、いちいちそういったことを非難していてはキリがない。また、書籍として出版された作品の中に書かれていることが虚偽であり(まあ実際に嘘が書かれているかどうかは知らないが)、それが特定の人間の心情を傷つける、といった意見を見かけたこともあるが、それは作者の責任というよりは、その嘘を許容し広めている出版社や各メディア、あるいは作中からその嘘を拾って周囲に喧伝している読者(とその喧伝を鵜呑みにする人)の責任ではあるまいか。
 後者の文章表現に関しては、だったら読まなければいいのでは?、の一言に尽きる。楽しい、面白いと感じるのは個人の感性の問題だし、不快と感じるのならば遠ざければよい。そういった住み分けをするのがとても平和的だと考える。言語文化や若年層の言語能力に与える影響を指摘しているのであれば、それはお門違いだ。程度の低い言葉の羅列を読むから言語能力が低くなるのではなく、言語能力が低い(狭い)からその範囲内に収まるレベルの文章しか読まないのである(※ケータイ小説=程度の低い言葉の羅列、という意味ではないので注意!)。そのレベルに留まるか、もっと自分の世界を広げて、様々な文章を楽しめるようになるかは当人の勝手である。また、そういった人間が社会人になったときの弊害を言っているのならば、まったく別の問題なので、やはり関係のないことである。


 個人的にはケータイ小説が売れているのは一過性的なものだと思う。数々の流行が次々と疾走しては、挙句に暴走したまま消滅する、というのは両儀のツンギレさんの言葉だが、ネットが普及してさらにそれに拍車がかかっている。きっとジャンルとしても成立しないのではあるまいか。