風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その248+365+347)

『暴力が最大最後の力であることは真理であり、それを放棄するには200年は早い』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 予約しているゲームのことごとくが延期ってどうよ?(挨拶)


 今日は快晴。昨日と比べ、若干気温は下がったが、まだまだ凍えるような寒さではない。しかし天気図を見るに明日は寒くなりそう。早朝から出勤の方には少し同情。
 以前に書いたが、風鈴製作者が子供の頃、イジメにあったとき、その解決法として拳で訴えることを選択した。だが、別にそれが最良の選択だと思っていたわけではなく、始めは、止めてくれ、とハッキリ口頭で抗議したし、それなりに交渉努力をしたつもりだが、まったく効果がなかったので、最終的にそれしかなかったのである。結果、それなりに体力や根性のあった(周囲にとっては意外だったようだが)風鈴製作者はイジメを止めさせることに成功した(ちなみにそれで一時孤立したが、こちらに利があったため、すぐに元の鞘に戻った。子供は素直で合理的である)。
 このように交渉事を暴力で解決するのはあらゆる場所、規模で通用する。国家間の問題とて同じことだ。相当規模の軍事力を有する国に、軍事力が皆無の国が何かしらの要求、ないしは意思表示をしたところで相手にされるわけがない。それは何の力も持たない幼児が、成人に、〜〜してくれ、と言うようなものだ。戯言に等しいのである。それが現実だ。
 もちろんどんな人間の言うことにも耳を傾け、公平に取り扱う精神は、人間の美徳という観点から有してしかるべきものだろう。だが、全ての人間がそういった美徳を尊重するわけではないし、そういった悠長なことを言っていられない場合もある。例えば、経済的に困窮し、このままでは死に瀕する場面でなりふり構っていられる人間はまずいないだろう。それができるのは一握りの聖人だけであって、全人類に望むのは夢物語だ。


 故に他者と対等な交渉する際には何らかの暴力的要素は必要だ。個人間ならば自らの能力を見せ付けるもよし。個人対組織ならば数の暴力を行使(同士を集め対抗)するもよし。国家間ならば軍隊を動かすのもよいだろう。もとより軍隊とはそういうものだ。実戦をすることだけが能の組織ではないのである(どちからというと現在では実戦を行う機会の方が少ないけど)。