風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その247+365+347)

『武士道は死ぬことと見つけたり、とは言うが、それはどんな人間も同じだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 間違った。1996〜1998年、じゃなく1995〜1999年だ。(挨拶)


 昨夜から雲が広がっていたが、案の定、雨が降りだした。しかし全般に小雨で15時くらいにはほぼ止んだ。気温は湿度の高さもあって、暖か。
 何のために生きているのか、という問いに対しては極論として、自分のため、という答えが正論なのだろうが、取りあえず今日は、どういったことを為すことが自分のためになるのか、という意味で考察をする。
 基本的に人間は誰しも何かのために何かを為すために生きている。これはそのように生まれついている、ということではなく、多数の同種の中で、自分という個人の意味(アイデンティティ)を埋もれさせないように見出そうとしている、ということだ。これは確固たる自己意識を持つヒトにとっては避けられない生理的現象とも言えるだろう。逆に言えば、これが無い人間は、酷く人格が希薄な人間である。
 過去、この国ではその対象が他人、あるいは組織や社会そのものに向けられることが多かったように思うし、またそのことが礼賛される傾向にあった。思うに、その原因はこの国の自然環境にあったのではないかと思う。地震が多く、たまに津波が押し寄せ、洪水も頻発し、台風まで襲来し、四季が次々に移ろう慌ただしい世界では、皆が協力し、支えあわなければ安定した暮らしを望めなかった。だからそういう風潮が生まれたのだろう。その結果として、誰もが何らかの役割を負って生きていたので、アイデンティティについて悩む人間はごく一部であっただろう。
 一方で現代においては科学の発展に伴い、自然災害はかつてほどの壊滅的な猛威は振るわなくなったし、とても豊かになって、必ずしも全体の協力が必要ではなくなっている。このことが逆に自己について悩む原因となっているのではあるまいか。事実として、この国に(あるいは世界に)いなくてはならない人間など一握りだ。科学の進歩による便利さ、裕福さが肉体面での問題を解決した反面、精神面でヒトを追い詰めていると言えるだろう。


 こういう世界で自己の意味を見出すには、何かを為す、という形では難しい。やはりどのように生きるのか、という一種の精神論的な哲学が必要だ。いや、別に意味など見出さずに惰性で生きていても構わないのだが、それで最後まで自信を持って満足に生きられるかどうかは疑問だ。少なくとも風鈴製作者にはできない。それは風鈴製作者が真面目だとかそういうことではなく、単に臆病だからだ。