風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その242+365+347)

『虚無で在ることは強みではあるが、しかし至高の存在になることはない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 退屈なときは異なる世界の話をしよう。(挨拶)


 朝はまだ日差しが見られたが、徐々に雲が広がり夕方前には完全に曇り。20時頃に外出したときには少しばかり雨もパラついていた。
 何にも感動を覚えず、善悪にまったく頓着のない人間を称して“虚無”としてよいのかどうかはともかく、取りあえず今日はそういう在り方について。
 虚無であるということは基本的に自発的には何も為さず、周囲の言われるがままに行動するのだろうが、ともすればこのダメ人間のような性質は、物事の追求ということにおいてかなりのアドバンテージを有する。何故なら、虚無であるが故に現在の自分の行動に疑問を持たないし、途中で違う命令を下さない限り、目的を完遂するまで止まることはないだろう。要するに決して脱線することがないのだ。人間は無駄なものを山ほど抱えながら生きているため、何をしていても他のことに目が向いてしまう。ひとつのことを延々と無限には続けられない生き物なのだ。この点で虚無なる人間は早期に非常に優れた結果を出すこと可能性が高い。
 ではそういう人間がある一分野においてトップに立てるのかと言えば、それには疑問を呈さざるを得ない。上気したように虚無なる人間は目的を完遂するまでは止まらないが、しかし逆に言うなら、目的を達成してしまったらそこで止まってしまうのである。これは虚無であるために、自分自身の意思による目標がないからだ。だから言われたことや課せられたことを終わらせてしまえば、それ以上の追求はしない。一方で普通の人間はそれ以上進んでも意味がない(用を成さない)ことに気付いていても延々と進み続ける場合もある。もちろんそれでどこまでも進んでしまうのは稀有な例だが、それでもそういう人間は存在する。そういう人間が特定分野において頂点を極めるのだ。


 だが、本当にまったくの“虚無”な人間はいない。人間は何らかの渇望があるから生きている。それは欲望であり、愛であり、または自分を知るためでもあるだろう。