風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その241+365+347)

『一般的通念における“らしさ”を追求できるのは、当事者ではなくむしろ観測者かもしれない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 お前の考える「女らしい女の子」。今後そんな女に会ったら男と思え!(挨拶)


 晴れ。しかしそれほど乾燥はしておらず、寒くもない。沖縄付近は台風の影響に晒されているようなので、少し南風が入ってきているのかもしれない。
 らしさ、というものは突き詰めると周囲の人間が望む在り様と言える。主観的に言うなら、他者に投影する自己の理想であろう。例えば男らしさ女らしさなどはその最たるものではなかろうか(男らしさは違うかもしれないが)。
 しかし理想を向けられている側には、その内容は正確には伝わらないし、同時にそれに従う義務もない。だから必ずしも“らしさ”というものは、それが向けられる側によって追求されるわけではない。むしろそれを外側から観測し、鏡として見ることのできる側の方が理想を追い求められるのかもしれない。代表例として、男でありながら、あるからこそ女性らしさを追及したのが女形というものだ。アレは確かに美しいと感じさせるものがある。けして単なる女装ではない。


 …ところで女装が流行っているとか? 流行っている、というよりは、今まで隠れていたのが表に出てきた、というのが正確だろうけど…。まあどんな格好をしようと自由だ。――――不快でさえなければ。