風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その240+365+347)

『美しい所作とは生まれによるものでは、断じて無い』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 岩代俊明キター!…と思ったら『P2!』が武装錬金コースだとっ!?(挨拶)


 今日も晴れて暖かかったが、昨日ほどではない。2〜3℃ほどは低いと思われる。朝からずっと晴れていたが、15時くらいから雲が広がった。世間は紅葉の時期である。
 よく物語で出てくる紳士キャラやお嬢様キャラの持つ高貴さのバックグラウンドとして、旧華族や商家の生まれであるとするパターンがある。こういったキャラが悪役の場合、大抵は血筋や家柄によってその人間の格が決まっている、といった差別的な台詞が飛び出すのだが、もちろんそんなことはない。
 だが、そういったキャラ(あるいはその取り巻き)が口にする高貴さというものが存在しないかというとそうでもない。そういうオーラのようなものを感じさせる人間はごくたまに存在する。
 高貴さ、というものは人間が美しいと感じる所作・立ち居振る舞いを会得している人間が持つものだと風鈴製作者は推測している。これは生まれた家や身分に拘らず、そのように在ろうとする人間には自然に身に付くものではあるまいか。少なくとも、どんなお金持ちで顔やスタイルが良くて身分が高かろうとも、卑屈で愚鈍で怠慢な人間には得られない特性であろう。


 あくまで身分や家柄、資産など、性格を形成する上で絶対的なファクターとは言えないものを排した上で、人間は“高貴さ”というものを“人間的な美しさ”の顕現である物理的な動作で解釈している、という前提の下での考えである。本来ならば“匂い”など、化学物質の感知による認識を視野に入れなければならないのだが、これは証明のしようがないのでここでは割愛しておく。