風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その239+365+347)

『動物は死を恐れない。そもそも“死”という概念自体を持ち合わせていないからだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 先祖の霊が護ってくれる? 何を非科学的なことを?(挨拶)


 快晴、そしてとても暖かで麗らか。のんびり過ごすには良い日だったが、よりにもよってこんな日に法事。別に読経や寺のお堂が辛気臭いとは思わないが、近縁の人々が集まって、何の益もなく非建設的なつまらない話に明け暮れるのは、実に非合理なことだと思う。
 死ぬことそのものに恐れを抱くのは人間だけである。それは人間にはいまだ自身が経験していないことを想定するだけの知能と想像力があるからであり(それが実際と比して正確かは関係がない)、他の生物にはそれがまったく不足だからだ。もちろんどんな生物も苦痛は感じる。しかしその先にある“死”という状態が如何なるものなのか、認識できない。それは“死”の概念自体、人間が自己の存在確立のための補完として、自分たちのために作り出したものだからだ。
 人間は命を維持し活動している限りにおいて自意識を持ち、それを用いて外界に対応している。しかし生命活動を停止し自意識というものがまったく発露されない状態において、人間の意識とはどうなって、どこに行ってしまうのかということは実際に死んでみないことには認識できないのである。こういった疑問を補完したのが死生観というものであろう。各地域の宗教や思想、生活様式などによって千差万別であろうが、大抵の死生観において、生前と死後の世界は異なるものであり、またその境界において何らかの判別を受ける。その差異に人は不安を抱き、死を恐れるようになったのだろう。


 もっとも、科学が進み、生物学的な知識が浸透し、医学的に死因が分類されている現在においてはまた事情が違う。現在、恐れられているのは“死”そのものではなく、死に至る苦痛こそが大勢を占めているだろう。