風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その230+365+347)

『無であるためには己が己であることを捨てなくてはならない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 “ティラノサタン”とかすごいセンスだ…。(挨拶)


 たまに晴れ間も見られたが、曇り。早朝の気温が最高気温で、そのまま横ばいの気温だった模様。寒気が南下し、明日の朝はとても寒くなるようだ。
 禅問答のようなものなので読み流し推奨。
 何も考えない、という状態を長く続けるのは難しい。人間が意思ある生物である以上、思考とは即ち自己の内面における主観の発露であろう。これを停止させるという状態は、一時的にしろ自己表現の閉塞ではなかろうか。外界に対する自己の閉塞、すなわちひきこもることが容易なのは言うまでもないが、これは肉体という、精神と外界を隔てる壁があるからである。しかし己の内部、即ち内界においてはそう易くはない。すでにしてその所在が内界にある精神を、精神の顕現そのものといえる内界に顕さない、という矛盾が発生するからだ。
 この矛盾を解消する手法としては精神を分化することが挙げられるが、しかしこれもまた完全に分化してしまえばそれは単にもうひとつの人格に観測させるというだけのことになる。故にあくまで分化した精神は己そのもの(コピー)でなくてはならないのだが、しかし完全に分化した瞬間にそれはもう己ではないと考えるべきだろう。ここでまたしても矛盾してしまうのである。


 さらにどこまでが自己であるかということは議論の余地があり、尽きることはない(まあ、そもそも現状、証明可能な議題ではないのだが)。